
特集_ 都市型国際演劇祭「KYOTO EXPERIMENT 2011」
|インタビュー| 平田オリザ「国際舞台芸術フェスティバルと拠点劇場」
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リニューアル後、第2弾となる「act」21号では「京都国際舞台芸術祭(KYOTO EXPERIMENT)」などの国際演劇フェスティバルを中心に劇評をとりあげ特集とします。恒例となった巻頭インタビューでは平田オリザ氏を迎え、日本で最近盛況になりつつある都市型の国際演劇フェスティバルと劇場法などで想定している拠点劇場の関係について、フランスなどでの状況などを踏まえて語ってもらいました。>>続きを読む

クロスレビュー_ 中西 理
平田オリザ+大阪大学石黒浩研究室・アンドロイド演劇「さようなら」
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大阪大学の石黒浩研究室(ロボット学研究)と劇作家・演出家の平田オリザの共同プロジェクトがアンドロイド演劇「さようなら」である。昨年夏のあいちトレンナーレで初演され、その後、各地を巡演しているが、私は2010年11月にフェスティバル/トーキョー10で初見、今回のKYOTO EXPERIMENTでの上演は2回目(フェスティバル/トーキョーでは2度見たのでステージ数としては3回目)の観劇となった。>>続きを読む

クロスレビュー_ 水牛健太郎
平田オリザ+大阪大学石黒浩研究室・アンドロイド演劇「さようなら」
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日曜日、京都芸術センターのフリースペースは、行儀のいい子供を連れた両親や品のいい高齢者、趣味のいい服を着たカップルなどでにぎわっていた。文化的蓄積を誇る京都の教養階級――常日頃の小演劇ファンと個人としては重ならないこともない、しかしマスとしてみれば明らかに違う空気を漂わせた観衆たち。美術展、コンサート、歌舞伎・能・オペラ。人口規模から考えれば、質・量ともに驚くほど充実した京都の各種文化イベントに熱心に通う人たちである。>>続きを読む
我々はなぜ芝居を観ながら「悪役」に惹かれるのだろう。思い付くことはあっても現実では許されない行為を、フィクションという安全弁付きで見せてくれる爽快さからかもしれない。そしてその行為を通じて、ある意味での「人間性」を感じさせてもくれるからではないか。>>続きを読む

劇評_ 坂本秀夫
ザガリーおばさん?ザガリーおじさん?え、何おじさん??
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この作家について無知な私は、「ザガリーおばさん」という人なのかと思っていた。ところがチラシなどで確認してみると「ニューヨークを拠点に活躍する『ネイチャー・シアターオクラホマ』のメンバーとしても知られる、ザガリー・オバザン(1974~)のソロ・パフォーマンスが日本初登場」ということらしかった。ドキュメント性を取り扱う作家でもあるそうだ。開演時間になると、私の予想に反し、舞台には外国人男性の姿があった。これでは「ザガリーおじさんだ」などと思っていると、スクリーンには、パロディー映像に興じる少年ザガリーたちと青年(30代半ばだから壮年か)になった彼らが行き来している。>>続きを読む
人間関係の理解を疑い客体化して問いかけた作品が、フェスティバル/トーキョー11参加作品の『家電のように解り合えない』である(作・演出=岡田利規)。電化製品にまつわる詩集『風姿家電』を出版した城之内小百合子が自作の詩を暗誦する傍らに、ダンサー・森山開次が動き回る。空間には、朗読テーマであるカラフルな掃除機や冷蔵庫が雑然と並ぶ。最後には、中央にある機器から泡が吹き出るなど、舞台表象はシュール。だが内容は、ダンサーと俳優は分かり合えるのか、さらには両者が融合し第三項の世界を出来させることはできるのかが〈分かりやすく〉問われており、決して難しくはない。>>続きを読む
今貂子+倚羅座は、2000年の結成以来、社寺、美術館、野外等の様々な場所で活動してきた。2007年からは、大正時代に建てられた五條楽園歌舞練場で、鏡板や欄干のある桟敷など独特の舞台機構を生かし、場の雰囲気を個々の身にまとうようにしながら、非常に密度の高い作品を発表し続けている。>>続きを読む

劇評_ 古後奈緒子
別の演技は、観客と別の関係を結びうるのか。
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エントランスを通り抜けると、客席の前方と左右はつうつうで、今そこを抜けてきたばかりの光景が開けている。むき出しの埋め立て地には、手前から奥へスクリーン、数台の車、小さな舞台や広告塔らしきセットがまばらに置かれ、その背後には都心のビル群。この虚実の境目が曖昧な映画都市に、観客は隠れるところなく身を置き、同じ空間で都市の論理に曝され行為する人々を追うことになる。従来の鑑賞の枠組みを揺さぶろうという作品の狙いは明らかだ。>>続きを読む
福島県立いわき総合高校総合学科にはカリキュラムの一環として芸術・表現系列(演劇)がある。五反田団の前田司郎やままごとの柴幸男、東京デスロックの多田淳之介など東京の若手演出家がワークショップや作品創作を行うことでも近年話題になっている。今回、神戸・新長田で上演した演劇部は、その中でもさらに演劇に取り組みたい学生が放課後に行う課外活動だ。>>続きを読む

特集_ ポストゼロ年代演劇と東日本大震災
|鼎談| 山崎彬×きたまり×杉原邦生
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国際演劇評論家協会日本センター(AICT)の関西支部の演劇批評誌「act」のリニューアルにあたり、今回以降ビビッドな題材を取り上げてインタビューないし座談会を掲載することにしました。
今回はその第1回として「ポストゼロ年代演劇と東日本大震災」を総合テーマに関西で今もっとも旬だと私が考えている3人の若手アーティスト(きたまり、杉原邦生、山崎彬)に集まってもらうことにしました。>>続きを読む
KIKIKIKIKIKI「ぼく」は白い正方形のリングのような舞台を客席が四方に囲む舞台設定。ここに7人の男たちが入れ替わり立ち代わり登場して、それぞれが個人技を繰り広げる遊び場、あるいは闘技場のような空間設定を演出・振付を手掛けるきたまりは用意した。
途中でセリフに呼応した動き(振付)を設定した場面もあるが、最初の「あいさつ」からはじまって、「自己紹介」「子供の時になりたかったもの」など登場する役者たちは誰かの役を演じるというのではなく、「ぼく=自分」のままで舞台に上がり、自分の言葉を発していく。>>続きを読む

クロスレビュー_ 高田ひとし
男には見えない男子のセカイ
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週刊誌をペラペラとめくると、必ずといっていいほどグラビアアイドルがきわどい水着姿で笑顔を振りまいている。男の欲望の鏡となって彼女たちは微笑む。消費的な女性イメージ。男たちの視線を受け止める商品は僕たちの身の回りにあふれている。だが、その逆はどうなっているのか、男である筆者はその内実をあまり知らない。一体「男」のイメージはどのように消費されているのだろう?
KIKIKIKIKIKIは女性三人のカンパニー。きたまりを中心として決して美しい身体ではないダンサーが肉体をさらけ出して踊る。背が小さいきたまりをはじめ、背の高い野渕杏子にぽっちゃりとした小太りの花本ゆか・・・彼女らはいわゆる「男性が欲望し、消費する女性像」からはかけ離れているがゆえに、艶めかしい「女」の存在感を醸しだす。そんなKIKIKIKIKIKIを率いるきたまりが今回取り組んだのは男のみ7人の俳優・ダンサーに振りつける作品、その名もズバリ『ぼく』である。>>続きを読む
2009年11月5日、新聞各紙は「元生徒、宝塚音楽学校を提訴、『ウソの告げ口で退学』」(朝日新聞)などの見出しで、宝塚音楽学校96期元生徒が退学取消裁判を起こしたことを報じた。私もこの報道で初めて裁判のことを知った。いじめという語句と共に、元生徒が二回仮処分裁判を起こしいずれも勝訴した、とあるのが私の注意を引いた。二回負けるのは、音校側に問題があったからではないか。
私の疑問は、約一週間後に音校がHPに発表した「当校元生徒からの提訴に関するマスコミ報道について」と題する文書で確信に変わった。私も教師の端くれであるが、文書からは生徒を退学させざるを得なかった教育者の痛みがまったく感じられなかったからである。>>続きを読む

時評_ 星野明彦
こちら側の文楽ー互いに歩み寄るためには
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2月の劇団太陽族公演『大阪マクベス』の劇中、「橋桁知事」の圧政に抗議する文化人達の掲げるプラカードに「文楽は大阪の宝」と書かれたものがあった。文楽は現代演劇と同様関西で不当に扱われている仲間とみなされているのかと、認識を新たにさせられたものだ。実際橋下知事は初めて文楽を観て「こんなものはこのままでは滅びる」といった意味の発言をしている。
昨年から国立文楽劇場は「むりやり堺筋線演劇祭」に参加している。5つの小劇場でポイントを溜めれば、一等席4600円の文楽(それでも他の伝統芸能や東京発の中劇場以上の現代演劇に比べれば、ずっと安い)を無料で観ることが出来るのだ。では現在の文楽に、初心者が近付くことは可能なのか。>>続きを読む
創立40周年を迎えた劇団大阪が、記念公演のための上演戯曲を募集、その入選作品が『フォルモサ!』である。「イラ・フォルモサ!」とはポルトガル語で「麗しの島」を意味し、16世紀にポルトガル船の航海士が台湾を見たときに、こう叫んだそうだ。日清戦争後、清国から割譲された台湾を統治するために1895年に日本の官庁、台湾総督府が設置された。舞台は総督府時代初期の台湾で活動し、苦悩するひとりの人類学者と妻の物語である。>>続きを読む
三好十郎の1948年の作品『廃墟』。この長大な懺悔劇とでも呼びうる戯曲に、真正面から対峙する集団の姿勢。この舞台の核であり魅力はそのことに尽きる。そして十分に互し、成果を挙げた(演出=黒澤世莉)。
懺悔たる所以は、『浮標』(1940年)で「俺達は万葉人達の子孫だ」と記したように、ナショナリズムへ転向したと見られる三好の自己総括が反映されているからである。一人の作家として敗戦を受け止めようとする決死の思いが、台詞の一つひとつに重く込められている。>>続きを読む

劇評_ 伊藤寧美
16年目の贖罪-『ピラカタ・ノート』考-
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舞台はまるで、おもちゃのまちのようだ。ワイヤーで吊るされた雲、ビル群を模した箱馬、その周りをぐるりと囲んで走るプラレール。そんな小さなまちピラカタのニュータウンで繰り広げられるさまざまな物語は、ままごと遊びのようなチープさを帯びる一方で、そこに住む人々にとっては彼らなりの重みを持った日常でもある。一見すれば、これはありきたりなニュータウンの風景で、だらだらと続く日々を単に眺めている私たちは、少し退屈ささえ覚える。>>続きを読む