vol.21

2014-09-29
平田オリザインタビュー「国際舞台芸術フェスティバルと拠点劇場」 

リニューアル後、第2弾となる「act」21号では「京都国際舞台芸術祭(KYOTO EXPERIMENT)」などの国際演劇フェスティバルを中心に劇評をとりあげ特集とします。恒例となった巻頭インタビューでは平田オリザ氏を迎え、日本で最近盛況になりつつある都市型の国際演劇フェスティバルと劇場法などで想定している拠点劇場の関係について、フランスなどでの状況などを踏まえて語ってもらいました。
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 中西理(以下中西) 平田さんは今回KYOTO EXPERIMENTにアンドロイド演劇「さようなら」で参加なさったわけですが、これまでもフェスティバル/トーキョー(F/T)のような総合舞台芸術フェスティバルや昨年のあいちトリエンナーレのような総合芸術フェスティバルにも参加なさっています。さらには国内だけではなくフランスを中心に海外でも豊富な国際フェスティバルへの参加の経験があります。内外の事情に詳しい平田さんに今の日本の国際フェスティバルの状況をどのように見ていらっしゃるか、フランスなどの場合、拠点劇場と国際フェスティバルは異なる役割を担っているということを以前おっしゃられたことがあると記憶してます。このあたりのことをまずお聞きしたいのですが。
 平田オリザ(以下平田) ヨーロッパの特に大陸の方の場合ですが、国際フェスティバルという大きな円盤と公共ホールという大きな円盤が並行して回っていて、これは垂直方向にも多少はつながってはいるけれど、前者は国際マーケットで後者は国内マーケットなのでそれはそれぞれにフィールドが違います。国際マーケットは年々見本市的な性格が強くなっていて、いいフェスティバルほど若いプロデューサーとか芸術監督とかが集まってきて新しいものを買い取っていくという機能があります。典型例はチェルフィッチュの岡田(利規)さんがベルギーのクンステン・フェスティバル・デザール*1で大成功して、以後何年にもわたって欧州市場でフェスティバルをまわるということが起こっている。
 平田 フェスティバルには非常に大きなヒエラルキーがあって、トップレベルのエジンバラやアビニョンからクンステンのようなより小規模だが特色を持たせたもの、そして地方の夏に行われるさまざまな大きさのフェスティバルがあります。1回作品がヒットすると日本の劇団の場合には3~5カ所あれば欧州ツアーが組めますから、例えば100のフェスティバルがあるとすれば原理的には20年はツアーを続けられる、そういう大きなマーケットがあるわけです。
 平田 一方で国内市場はフランスならフランス、ドイツならドイツで強固な劇場システムを持っています。フランスの場合、国立演劇センターがそれぞれ作品を作って、それをお互いが買い支えていくという仕組みです。その場合にアビニョンなどでも発表する、それは海外なども意識した作品が多いわけですが、国内市場の見本市的な役割も果たしていて、7月には劇場のプロデューサーや芸術監督はバカンスに入ってますから、そういうところに来て1~2週間滞在して、翌シーズンか翌々シーズンのラインナップを買い取っていくという風になっています。ですからフェスティバルと拠点劇場には、この点で垂直方向の接点もあるわけです。
 中西 それではアビニョンやエジンバラが夏のシーズンにあるのはそういう事情があるからでしょうか?
 平田 もちろんそうだと思います。そして、見本市機能が増しているなかでクンステンがいま力を持っているのは芸術監督が非常に目利きで、世界中を回って最先端のしかも他のフェスティバルが呼びやすいものをうまく選んで上演しているというのがあるわけですね。例えば少人数であったりとか、セットが少ないとか、祝祭性が強いとかいうようなことも重要な要素です。そういう点では青年団はあまりフェスティバルには向いていなくて、公共ホール向きだと考えています。フェスティバルは1日に何本も見ますから、やはり刺激の強いものとかの方が喜ばれる傾向がある。アビニョンとかエジンバラというのはご承知の通りフリンジ機能というのが非常に大きくて、アビニョンはたぶん年に20~30の正式招聘作品に対して、約1000のフリンジの作品があって、このフリンジも段々と評判が出てくるとお客さんも集まるし、劇評もでるし、劇評を劇場の表に貼ってとか、俳優がチラシ配ってとかすごい涙ぐましい努力をして人を集める。それで本当に1000あるうちの30とか50とかがどこかに買い取られていく。そのうち本当にたくさん買い取られていくのは1ケタかもしれません。だから、アビニョンドリームとかエジンバラドリームというのは今は本当に少なくなっていて、それよりはいったん芸術監督の選抜を経たクンステンのようなものの方がチャンスがつかみやすくなっている。アビニョンとかエジンバラとかは本当にお祭りだから、プロデューサーも来るけどなに見ていいか分からないから雲をつかむような話なので大変ですよね。だから本当に見本市機能をさらに強化したようなものの方に流れていっているかなというイメージはあります。
 中西 海外のフェスティバルと比べて、日本のフェスティバル/トーキョー(F/T)やKYOTO EXPERIMENTはどうでしょうか? 後、日本の場合にはもう少し規模は小さいですが鳥の演劇祭とか静岡のように拠点劇場が主催して開催している国際演劇祭もありますが、これはどうでしょうか。
 平田 もともとさかのぼれば、もちろん国際フェスティバルの最初は利賀フェスティバルで、国際フェスティバルにはもうひとつ大きな役割として海外の文化に触れるという本質的なものがあると思うんですね。利賀のフェスティバルには海外の最先端のものに日本の演劇人が恒常的に触れられるようになったという大きな意味があったわけですが、時代とともに国際フェスティバルの役割も変わってきた。そろそろ日本でも見本市的な役割のフェスティバルが求められていたところにFTができて、それまでの蓄積もあったわけですが、やはりF/Tになってから、圧倒的に海外からのプロデューサーや芸術監督の来日が増えたことは間違いない。いくら韓国が文化予算を使っても日本の方がまだまだ表現の多様性があるので、(海外市場への)吸引力がある。F/Tができたことは非常に喜ばしいことで、それに鳥の演劇祭とか静岡が異文化の紹介という最先端のものを紹介する機能を補完して果たしているということが今の状況でしょう。
 中西 それではF/TとSPACの演劇祭では機能が違うということですか?
 平田 SPACは立地条件もあって、毎週末にしか上演できないので見本市的な機能は持たせにくいですね。ただ、いまは、静岡がないと本当に最先端のものに触れる機会がF/Tだけになってしまう。昔と違ってあまり世田谷パブリックシアターとかが呼ばなくなってしまったのでそれはそれで大事な役割があると思います。
 中西 そのなかでKYOTO EXPERIMENTの位置づけはどのように考えたらいいのでしょうか?
 平田 そこは、私も多少なりとも立ち上がりの時からアドバイザー的な立場でかかわってきたので、私がずっと言ってきたのは最初のうちは今のままでもいいけれども、京都という土地柄からいって、フリンジ的ものを伸ばしていくのがいいじゃないかということです。フリンジ機能はF/Tもやっていますが、弱いんですよね。東京はだだっ広いから。フリンジというのはエジンバラとかアビニョンみたいに城郭都市で、城郭の中で歩いて全部行けるところで、そこかしこに劇場空間があるというのがフリンジのいいところなんで、京都はぎりぎりそれができる街なのです。それから京都のブランドイメージがあるから、F/Tに海外から来るプロデューサーも芸術監督も2~3日京都に足を延ばすかということになって嫌だという人はいないわけで、だとすればF/Tとのすみ分けを図る意味でもフリンジ機能を強化した方がいいんじゃないかと思うわけです。それは徐々に出てきてるとは思うのですが。もちろん、フリンジ機能というのはフリンジだけではできなくて、集客力のある目玉の作品とフリンジという関係性ですから、フリンジの方は玉石混交でいいと思っているのだけれど、まだそこら辺の割り切りが弱いというか、もっとメチャクチャにした方がいいと思います。つまり、クンステン型の目利きが選んでくるフェスティバルを目指すのか、フリンジ型で徹底させるのかをもう少しはっきりさせた方がいい。僕は、京都の場合は、ある種のクオリティーを保証するというのは今の体制ではちょっと厳しいのではないかなと思っている。お金もないといけないですしね。
芸術監督とかフェスティバルディレクターには、玉石混淆を許す、大らかさとか大ざっぱさも必要な資質です。

 中西 そうですね。F/Tがどういう体制でやっているのかは分からないのですが、「KYOTO EXPERIMENT」は2人のプロデューサー(橋本裕介、丸井重樹)がすべてを手づくりでやっているような感じもあります。おそらく、もう少し体制というか、その下にグループとしてのフェスティバル運営ができるスタッフがいないとしんどいかもしれませんね。
 平田 フリンジを増やして自己増殖型にした方がたぶんいいと思うんですけどね。
 中西 最初はあの体制で毎年やるとは思っていなかったのでちょっとびっくりしました。
 平田 でもよくやっているし、今年からは文化庁の比較的大きな予算もとってこられたわけですから、滑り出しとしては上々じゃないかと思います。それはいろいろ言う人はいると思うんですが、フェスティバルというのは、そんなすぐにできるものではないんです。アビニョンだって何十年という伝統があってあそこまでになってきたわけですから。
 中西 日本だけの特殊な形態なのかもしれませんが、そのほかに平田さんも参加したあいちトリエンナーレのようにアート系の大きなフェスティバルの一部に舞台芸術が含まれているという場合もありますよね。単発ではありますが、瀬戸内国際芸術祭が維新派を招聘している例もあります。特にあいちトリエンナーレはパフォーミングアーツの部門だけでも質量ともに国内の舞台芸術フェスティバルと比較してもひけをとらないどころか、それを上回るような質量があり、1回目だったということもあり、今後どのようなことになるのかはまだまだ予断を許さないところもあるのですが。
 平田 あいちトリエンナーレは本当にああいう形でやっていただいてよかったなと思っています。今後もああいうことは増えていくだろうと思いますし、それもまた大きなマーケットになっていくことは間違いないでしょう。
 中西 いままでの話に出たフェスティバルでF/TやKYOTO EXPERIMENTなどは独立した実行組織があるわけですが、鳥の劇場やSPAC、そしてあいちトリエンナーレで主体となった愛知県芸術文化センターのように拠点劇場として想定されているような劇場が演劇フェスティバルを主催している例も多いようですが、日本における機能の分化などについて平田さんはどのようにお考えなのでしょうか?
 平田 ヨーロッパのフェスティバルの場合は小さい町でやるものの方が多いのです。特に夏のバカンスシーズンなどにそれをひとつの観光の目玉にしている。町中のいろんな空間を劇場にするということで、例えば今年私たちが行ったイタリアのサンタルカンジェロフェスティバルなんてのは劇場がないんですよ。小劇場が1個あるんですが、本人たちも劇場はないと言っていて、納屋みたいなところだとか、「ヤルタ会談」は市議会の議事堂でやったという風にいろんなところ、ありとあらゆるところを劇場にしていく。その面白さはやはりあるんです。まあ、後やはり向こうの夏は雨がそんなには降らないので、野外もできるというのもあります。だから、日本では今までは大きな都市でやっていたので、もっと小さな町がやるのがまずひとつの選択肢だと思います。一番そのイメージに近いのは沖縄市のキジムナーフェスティバルだと思いますが。中核にある劇場はもちろんあってもいいのですが、鳥の演劇祭もだんだんそれに近づいてきてますね。この間「ヤルタ会談」は鳥の演劇祭でも旧鹿野町の町議会の議事堂でやった。そういういろんなスペースを使ってやっていくというのが一般的になっていくと面白くなっていくのではないかと思います。京都もその可能性が十分にある。町中にいろんなスペースがありますから。京都は大都市なんだけれどそれができるちょっと稀有な都市ではないかと思います。周囲を囲まれているし城郭都市に近いでしょ。
 中西 日本の都市では京都がエジンバラと一番似ている感じがします。私が海外の演劇祭を見てきた印象ではたぶん、あのくらいの規模の町が大きさの限界だと思います。
 平田 そうです。限界です。
 中西 東京とかニューヨークとかだったら埋もれてしまってやってる感じがしないのじゃないかと思います。東京国際映画祭などを見ていていつもそう思っていました。
 平田 だから東京の場合は(F/Tは)これまでそういうものがなかったから機能としてはいいのですが、今後ほかの競合するものがでてくると考えなきゃいけないってことになるでしょうね。今は非常に役割をはたしてくれているので有難いのですが。

撮影:阿部綾子

撮影:阿部綾子


 中西 一時、演劇祭というのはそういう形式ではないものがバブル時代というか80年代にたくさんあったのが、急速になくなってしまいましたよね。そういうものと今やられているF/TやKYOTO EXPERIMENTでは集客性というか、作品の前衛性などで違いがあると思われますが。
 平田 そこら辺は本当にこれからの課題でもあって、メインの集客性が見込めるものとフリンジとのバランスを、継続性ということを考えると、絶妙に取っていかなくてはならなくて、それはまあ試行錯誤ですごく前衛によってしまう時と大衆性によってしまう時といろいろあって段々とフェスティバルの色というのは固まってくる。だから1~2回の開催であれこれ言わなくてもいいんじゃないかと思っている。ただ、まぁ言わないと揺り戻しもないから、いろいろ言うのも大事なんですが。それですぐに「これではだめ」っていうことにはならないと思います。
 中西 拠点劇場の方はどういう役割を果たすことになるのでしょうか。
 平田 国がお金を出して演劇作品を作るということを新国立劇場だけにまかせるというのは明らかにゆがんでいるし、非効率なので「創る劇場」というのを10とか20とか30とかきちんと決めて、そこにはちゃんと競争もあって、JリーグのJ1、J2みたいな感じで、そこはきちんと作品を国の責務として作る。それと「見る劇場」、これは地域拠点で、別に作品を作らないということではないのだけれど、基本的には買い取りながら回していくというところに機能を分化させていくべきだと僕は考えています。たくさんの劇場があって全部が全部作品を作れるわけじゃない。だとすればそれはやっぱり、空港行政や港湾行政と同じで、選択と集中がどうしても必要であると思います。
 中西 そういう中で関西では拠点劇場という役割を今担えるような劇場が兵庫県立芸術文化センター以外は大阪も京都も現状では見当たらないということがあって、その中でひとつ平田さんも準備段階でかかわっていらっしゃる「ナレッジシアター」、あれも当初計画よりはちょっと遅れているようなこともお聞きしているのですが、現状と見通しについて少しお聞きしたいのですが。
 平田 先ほども会議があったばかりなんで、本当に今どうなるかの瀬戸際ぐらいなので、どうなるのか自分でもまったく分からないのです。ただ、今確か重点拠点は11カ所全国にあると思うのですが、大阪市内にないというのは特に演劇において、兵庫はどちらかというとオペラ、びわ湖ホールもそうですから、明らかにバランスを欠いている。民間がやるのか、行政がやるのかということは別にしてそれはやはり将来的には必要ですよね。
 大阪大学としては総長が替わって停滞しちゃったんですが、昨日、きょうあたりの話し合いでまあ大丈夫だろうということになったのですが、もう1回上の方で話し合いはしていて、後、1、2週間で結果が出る。大阪市、府側の問題もある。いずれにせよ今は私の手を離れてしまっていてそちらの方での結果がでるのを待っているところです。
 中西 京都はどうなんでしょうか?
 平田 京都も市の芸術会館について検討が進んでるようです。
 中西 京都会館のことでしょうか? 建て替えは小劇場などと関係があることなんですか。
 平田 多少関係はあるんじゃないでしょうか。いまいろいろやっているということを聞いています。あそこも貸館需要もあるので、いろいろ難しいみたいなのですが。
 平田 まあやっぱり芸術監督のいる創造拠点は、関西にも欲しいですよね。基本的に劇場法というのはそんなに難しいことを言っているわけではなくて、劇場というのはただ鑑賞の場ではなくって、創造の場ですよ、ということ。創造の場である以上は専門家が必要ですよ、ということだけなんです。それを法律で根拠づけるということだけなんです。階層化みたいなことは法律にはなじまないんで、実際には現実の助成金の出方もすでにそうなっているので、それを裏付けるような概念的な法律を作るということです。
 中西 フェスティバル/トーキョーやKYOTO EXPERIMENTに出ている助成金というのはどういう類のものなのでしょうか?
 平田 それは国際フェスティバルに対する助成です。それは昔に比べて潤沢に出るようになっています。
 中西 それでは劇場法と関係なくそういう助成金などは続いていくということなんですね。
 平田 もちろんです。それももう少し分業と競争と淘汰が進むと思います。つまり、今はアーツカウンシルがないから分業は、申請側が個別に、自分たちで考えなくてはいけない。だから国の政策というのはあまり出ないのですね。本来だったらアーツカウンシルで主導して、あなたはこういうのをやっていただくといいのですけどねというようなことがもうちょっと言えるといい。それでもちろん、地域の側で拒否してもいいわけです。やるのは自治体だから。ただ今は、あまりにバラバラで、市場にまかせすぎじゃないかと思っています。
 中西 平田さん、あるいは青年団とフェスティバル、拠点劇場との関係なのですが、今海外ではフェスティバルにはロボット演劇あるいはアンドロイド演劇で参加していることが多いですよね。
 平田 先ほど申し上げたように、うちはあまりフェスティバルに向いていないんですね。例えば去年「東京ノート」でシビウの演劇祭に行ったのだけれど、うちはやはり待遇はいいので夜10時からとかの開演だったんです。8時からとか10時からとかは待遇がいいメインの公演です。ただ、お客さんは朝からずっと見ていて最後に疲れきって見るから、『東京ノート』なんかはあんまり向いてないんです。だから、そういうものよりはアンドロイドのような客寄せ的なものの方が好まれて、おそらくこれからは、うちでフェスティバルに呼ばれるのはそういうものの方が増えていくと思います。今年もイタリア・ナポリ演劇祭とサンタルカンジェロ演劇祭に行ったんですが、それは「東京ノート」と「ヤルタ会談」をセットで持って行ったんです。ジュネーブのバティックという演劇祭も「ヤルタ会談」とセットで持っていった。「ヤルタ会談」を見て「東京ノート」を見ると、これはなかなかいいんですよ。「ヤルタ会談」で少し慣れておいてから見ると、『東京ノート』もフェスティバルでもすごく評判がよくて、だからそういう風にやはり見せ方も工夫しないと、うちみたいにある程度ブランドイメージが確立してきている劇団でさえも、フェスティバルに行くとなるとなかなかうまくいかない。今度「ソウル市民」5部作を、できれば2年後にアビニョンでやりたいと思っているのですが、そういう一挙上演みたいなのは1日中ずっと見ているから、うちみたいな劇団でもいいわけなんです。
中西 平田さんに聞くことではないのかもしれませんが、アビニョンフェスティバルは何年か前の日本特集が評判がよくなくて、それ以来日本の劇団がやりにくくなっているというのは難しくなっているという風に聞いたことがあるのですが。
平田 それはそうではないです。評判が悪かった、あまり成功しなかったのは確かですけれど、日本の劇団がそれでやりにくいというのは文法的におかしいですね。だってフリンジは全部開かれているわけですから。
中西 すいません、呼ばれにくいという意味でした。
平田 呼ばれにくいというのはアビニョン自体がフランス語上演が多くてそんなに海外の作品を呼ばない傾向になっているからじゃないでしょうか。そうは言っても2006年のフレデリック・フィスバックがやった「ソウル市民」は日本語上演で正式招待でした。それでル・モンドの1面に出ましたから、だから、決してそういうことはないです。まあ、選定はフラットだから。いいものはいいし、だめなものはだめ。毎年ディレクターも変わりますし。ただ、あえて言うなら、(日本特集の失敗で)日本に対する幻想はなくなったということはあるかもしれません。アビニョンは本当にもうはっきりしていて、正式招待とフリンジとでは全然待遇が違う。「ソウル市民」なんて打ち上げはプールのあるレストランで泳ぎながらシャンパンを飲んでいて、一方でフリンジ参加の劇団は宿舎もざこ寝ですから、中核に入らないとはっきり言って意味がない。若手の人たちに言っているのは、もうアビニョンでフリンジに行く時代ではない。それよりはF/Tに出て、ちゃんとした作品を作ればそこにクンステンのフェスティバルディレクターとかは毎年来るわけだから、そこで認められる方が全然効率はいいんだよと言ってます。やっとそういう時代になったということですね。だから逆に言うとアビニョンに台湾とか韓国の劇団がいますごくたくさん来ていますが、それはアビニョンにフリンジで参加することがまだステータスになる国だからです。(日本では)今はもう構造は分かってしまっているでしょ。アヴィニヨンなんて、フリンジならだれでも行けるんだということを皆知っちゃっているから、「アビニョンから帰ってきました」「スタンディングオベーションで好評でした」といっても「へえ、そう」という感じ。それがニュースになったのは日本では20年以上も前のこと。
中西 海外のフェスティバルに行っても次につながらないと仕方ないですからね。
平田 そうです。そして、そういう意味でもつながりやすいクンステンなどに行く方が成功への確率が高くて、クンステンに行くには日本でやっていてもチャンスはある。そのチャンスをもらえるようになったのはF/TやTPAMのおかげだということです。
中西 以前だったら海外公演は日本である程度実績を積んだ劇団が万全の準備をして行っていたのに対し、最近は旗揚げしてまもないような若手劇団が次々と出かけていって、それもただ行くというだけじゃなくて、ちゃんとマーケットに乗っているようなことが増えているような気がするのですが。
平田  それは本当にいいことだと思います。それはある程度ノウハウが確立して、才能のある人が才能をちゃんと伸ばせるようになったというのはいいことです。関東圏では、フェスティバル以外にも、公共ホールに芸術監督や専門のプロデューサーがいて、通常の劇場でも貸し館ではない公演が増えている。後はアーツカウンシルができればと思います。国の助成金だけで何度も海外に行っているような劇団は淘汰されるべきだと思います。だけど今の現状は書類を書くのがうまいところが海外に行っているという傾向があるから、本当に行かせたいところを行かせるようにしないいけないと思う。セゾン文化財団はクンステンと組んでそれをやっているでしょ。本来あれはアーツカウンシルがやるべきことなわけです。推薦枠みたいなのをもらってどんどん向こうのフェスティバルに対して、今回これどうですかみたいな感じで、アーツカウンシル主導で海外展開をやるわけです。
中西 向こうの状況ははっきり分からないのですが、クンステンのようなフェスティバルとアビニョンとかエジンバラというのはまたリーグが違うのでしょうか。規模の大きなバジェットの大きなところと小規模なところの間には回る作品の方向性の違いのようなものも感じるのですが。
平田 巨大フェスティバルとそれの次のウィーンとかクンステンでは、はっきりと規模の違いがあります。クンステンというのはちょっと隙間産業のようにぐっと急に出てきたものだと思います。そんなに規模を大きくしないで目利きが50くらいの公演を集めてきますみたいな新しいタイプですよね。シーズンも全然夏じゃない時期にやるという。また、ブリュッセルという大きな都市だけど、歩いて回れて、交通の便がよくて、ヨーロッパ中から集まりやすいということもあります。だから、それはそれで新しいマーケットを作ったということはあります。
中西 そして、そこからネットワークが出来てきたことで、プレゼンスが増してきているというのはあるわけですね。
平田 そうです。
中西 ただ、逆に言うとそこからメジャーリーグというべきなのかどうか分からないのですが、アビニョンやエジンバラの正式招聘にステップアップして行こうと考えた時にそこには大きな壁があるとも聞いているのですが。
平田 それは少なくともアビニョンの場合はフェスティバルと公共ホールとの関係があって、本来、ヨーロッパの演出家だったら、フェスティバルのマーケットを周りながら、次には公共ホールの方に行ってそこで作った作品とかがアビニョンに招待されるわけだから。それは岡田さんも、じっくりそこの点について話したことはないのだけれど、オファーがないわけではないだろうし、迷っている部分もあるんじゃないかなと思います。要するにまだ彼は外国語で作品を作るということに多少の躊躇があるという話は、本人から聞いたことがあります。そして、それに慎重であることも、大事なことだと思います。
中西 「水と油」がエジンバラとかアビニョンのフリンジをきっかけにいくつもオファーを受けて、ヨーロッパのツアーを始めてけっこういろんなところに呼ばれていた時期があったのだけれど、それだけでは限界を感じたというのを聞いたことがあります。何のために行くのかということもあると思うのですが。
平田 フェスティバルで回っている分にはそれはそれである程度商売になるんですが、やはり限界があるのと、そのうち飽きられる。僕は逆にフランスの公共ホールのマーケットの方に、最初から運よく入ったので、毎年クリエーションの依頼が来て、今も向こうで毎年作品は作っているわけです。それは非常に特殊な存在であって、運がいいとそれがアビニョンに行ったり、パリのフェスティバル・ドートンヌというのに参加したりするわけですが、そうすると巨額のお金が入ってくる。
中西 来年(2012年)は平田さんの予定はフェスティバル関係ではどうなっていますか。
平田 来年はフェスティバル・ドートンヌというパリの秋の芸術週間のようなところで、これに出ると予算も潤沢にもらえるので、これに出るかどうかを今交渉中です。これはロボット演劇の新作「三人姉妹」を考えています。それから、先ほども言った再来年のアビニョンでの「ソウル市民」5部作一挙上演というのも現在交渉中です。要するに1、2年前からいろいろ大雑把に話をしておいたのが、ある時期に急にぐっと決まっていくものなのです。
中西 アビニョンはもし上演するとしたら日本語上演で字幕をつけるということになりますか?
平田 日本語上演です。
平田 きょう話したことを最後にまとめるとするとやっと日本の若手の演出家が戦略を持って国際展開ができるような時代がやってきたということで、それはとてもいいことだと思います。それから、国や地域によって、システムはみんな違います。今日はヨーロッパの大陸の話がメインでしたが、国土の大きいカナダやオーストラリアでは、芸術見本市が力を持っているようです。公共ホールの在り方も、ネットワーク型のフランスと、大艦巨砲主義のドイツでは大きく違います。
極東という日本に地理的条件も踏まえて、時間をかけて、日本型の演劇マーケットを作る、そしてそれを国際マーケットとどうリンクさせていくかという長期的な視点が必要になってくるでしょう。

(2011年11月24日、大阪大学平田研究室にて収録)
  

 

2014-09-29
クロスレビュー|平田オリザ+大阪大学石黒浩研究室・アンドロイド演劇「さようなら」

平田オリザ+大阪大学石黒浩研究室・アンドロイド演劇「さようなら」(10月2日@京都芸術センター)

撮影:阿部綾子

撮影:阿部綾子


日曜日、京都芸術センターのフリースペースは、行儀のいい子供を連れた両親や品のいい高齢者、趣味のいい服を着たカップルなどでにぎわっていた。文化的蓄積を誇る京都の教養階級――常日頃の小演劇ファンと個人としては重ならないこともない、しかしマスとしてみれば明らかに違う空気を漂わせた観衆たち。美術展、コンサート、歌舞伎・能・オペラ。人口規模から考えれば、質・量ともに驚くほど充実した京都の各種文化イベントに熱心に通う人たちである。
彼らの前には暗転した舞台があり、舞台の上には人形のようなものがうっすらと見える。あれが、そうか。やがて照明が明るくなると、それは思った通り、黒い服を着たアンドロイド。お目当ての機械人形である。口が縦にぱくぱくとしか開かず、背中の動きも若干かくかくしているが、表情などは驚くほど自然である。金髪の女性(こちらは人間)と15分間の短い劇を演じる。病気で死にかけた女性を慰め、詩を詠む。死なない自分はどこまで遠くに行けるだろうと、自分の存在への懐疑をもらしてみせる。SFにおけるヒューマノイド型ロボットは自分の存在に悩むものと決まっている。その定石を律儀におさえて、見る人に安心感を与える。
アンドロイドを研究している大阪大学の石黒浩教授との共同作品であり、何はともあれ、アンドロイドに何ができるかを見せることが最大の目的であった。平田オリザはその要請に見事にこたえてみせた。歩くことはおろか立ちあがることもできないアンドロイド。その限られた演技の幅を感じさせない、病気の女性との会話劇。自ら語るように、日本語のたどたどしい、金髪の女性を相手役に起用することで、アンドロイドの「不自然さ」を相対化する。日本人が幼時から蓄積しているヒューマノイド型ロボットSFのステロタイプを利用し、15分の間に心地よい詩情を漂わせてみせる。
平田オリザは当代の才人である。民主党への政権交代直後の鳩山内閣で施政方針演説の原案を書き、演出も手がけたことは有名だ。日本の戦後において、政治学者、民族学者、建築家など、時の政権のご意見番として役割を果たした知識人の系譜があるが、平田オリザにも彼らに似た匂いがある。目に見えて有能で、空想的ではない、現実的な才覚に富んでいる。能弁で、独自の説得力があり、器用で多才である。要するに、現世において成功する要素を兼ね備えており、当然の結果として成功する。平田オリザとはそういう人である。
その一方、平田は「後世に残る戯曲を書く」ことを人生最後の野心としてしばしば口にしている。しかしこればかりは、平田とて実現できるかは分からない。少なくとも言えることは、アンドロイド演劇のような作品はまず後世には残らないということだ。
文学などの歴史を見ると、結果として後世に残っている作品は、必ずしも広く読まれた作品ではない。むしろ少数でも熱心な読者に読まれたものが残る傾向にある。カフカの作品を後世に残したのは、彼から譲り受けたノートをトランクに詰めてアメリカに亡命した友人マックス・ブロートの決断だった。たった一人の人が「自分の命に代えてでも」と思えば、作品は残る。しかし実は、その一人を持つことができない作品・作家が大半なのである。ベストセラーを書いて数十万人、数百万人の読者を得ながら完全に忘れられた作家など数えきれないほどいるのだ。
もし平田が、本当に後世に残る作品を書きたいのなら、アンドロイド演劇のような、演劇的には何の意味もない「遊び」をしている時間はないのではないか。何かを得るためには何かを捨てなければならない。才人・平田もその例外ではないのである。

水牛健太郎(みずうし・けんたろう/wonderland編集長)

 

2014-09-29
クロスレビュー|平田オリザ+大阪大学石黒浩研究室・アンドロイド演劇「さようなら」

平田オリザ+大阪大学石黒浩研究室・アンドロイド演劇「さようなら」(10月2日@京都芸術センター)

 大阪大学の石黒浩研究室(ロボット学研究)と劇作家・演出家の平田オリザの共同プロジェクトがアンドロイド演劇「さようなら」である。昨年夏のあいちトレンナーレで初演され、その後、各地を巡演しているが、私は2010年11月にフェスティバル/トーキョー10で初見、今回のKYOTO EXPERIMENTでの上演は2回目(フェスティバル/トーキョーでは2度見たのでステージ数としては3回目)の観劇となった。
 アンドロイド演劇と銘打っている通りに「さようなら」は石黒教授が開発した人間そっくりのアンドロイド(ジェミノイドF)が出演し、これが人間の俳優と共演する2人芝居である。
 上演時間は15分程度と短い。それもあって、これを単なる演劇作品という風に考えると物足りない。見終わった後の感想は最初のアンドロイドが照明に浮かび上がって見えた時には「これがそうか」と少しの驚きはあったものの、芝居自体はあっけなくて「もうこれで終わってしまうの」という感じであった。
 ただ、この公演では2回あった上演のいずれもアフタートークがついていて、ここで作り手側のアンドロイドについての話が聞ける。最近の上演ではトークと上演を組み合わせて1組になっている。実はこれが決定的に重要なのだ。短いため、単独で演劇公演としてお金をとって見せるのは難しい事情もあるだろう。実はフェスティバル/トーキョーでは公演をはしごせねばならずにトークの部分を聞くことができずに今回初めてトーク(私が見た回は石黒浩氏が登場した)まで合わせて聞いた。その結果、分かってきたのはアンドロイド演劇というのは単に「アンドロイドが登場する演劇」という見世物的なものというのではなく、一種の思考実験なのだ。アンドロイドと人間の俳優が同じ舞台に乗って共演することで、私たちが通常無意識である他者に対する認識のあり方について考えさせるものだということだ。さらにこれは平田が考える演劇という仕掛けの見事なプレゼンテーションにもなっていた。
 もう少し具体的に説明しよう。詩を読むアンドロイドと死に至る病に侵された少女の物語。「死すべきもの=人間とそうでないもの=アンドロイドの交流を通じて短い上演時間の間に私たちが生きてそして死んでいくことを考えさせる」。といえば通りはいいが、物語自体は正直言ってステレオタイプだ。SFにはありがちな設定でしかない。石黒の製作したアンドロイド(ジェミノイドF)は一見驚くほど人間によく似ていて、やりかたによっては短い時間であれば人間と錯誤させることはできそうではあるが、平田はそうはしない。ちょうど、ロボット演劇「働く私」がそうであったようにアンドロイドはアンドロイドを、人間は人間を演じる。
 どういうことかというと「さようなら」に出ているアンドロイドは人間として出てくるのではなく、アンドロイドとして登場する。それは病気の少女の父親が娘のさみしさをなぐさめるために買い与えた高価な玩具で、プログラムに従い人となめらかに会話ができ、自分のデータベースから状況に適応するような詩句を自由に選び出して、それを朗読するという機能が付与されている。
 最初、「どのくらいに人間にそっくりなのだろう」と彼女を凝視するが、舞台上のジェミノイドFは実際には人間と区別がつかないというほどではないことに気が付き少しがっかりする。だが、しばらくするとそれは技術的なあるいは演出的な限界というわけではない。必要があればもう少し人間と誤認させるように登場させることも可能なのだろうが、意識的にそうしてないのだろうということが了解されてくる。 
 例えばアンドロイドの声は本体からではなくて少し離れた位置にあるスピーカーから発せられる。また、人間の声質とは少し違う声に設定されている。人間のように見えることが目的であるならば、そう見えるように演出することも十分に可能だろうと思われるが平田はそうしない。ロボット演劇「働く人」においては「ロボットはよりロボットらしく」という演出をしてみせたが、それはここでも同じなのだ。
 ところがわずか15分ほどの芝居ではあるのだが、見ているうちに不思議なことが起こる。機械仕掛けの人形のようであったこのアンドロイドが少女との会話を通じて、まるで実際に意識や内面を持ち人間同様に生きているように見えてくるのだ。ここでアンドロイドが生きて意識があるように見えるのは何もそれが人間に似ているからではない。それはここに登場した少女がアンドロイドをあたかも生きていて自分同様に意識のあるように見なして会話を交わしているからだ。 
 平田オリザの演劇を私が以前に「関係性の演劇」と名付けたのは平田の演劇が現代口語の会話を通じて、登場人物相互の関係性を浮かび上がらせるからで、そこで実際に生きた人間がリアルに存在するように見えるのはその関係性が現実生活において私たちが経験している関係性を反映しているためで、実際には不可視である登場人物の内面のためではない。
 逆に内面などは見えないのだからあってもなくてもいいのだ。これをもって挑発的な表現として俳優をロボットや駒のようなものと例えたのが平田の演劇論だが、このアンドロイド演劇ではもちろんアンドロイドは一種の操り人形のようなもので、内面などないことは明確だから平田が以前語っていたことの証拠としては十分であろう。つまり、私たちはいわば幻というか幽霊のようなものといっていいが、関係性の中に実際には目に見えない意識や内面を見て取るのだ。
 ところでよく考えてみるとこれは実はアンドロイドだけに該当するわけではない。この舞台に登場している俳優にも該当する。俳優についても演じている俳優は役柄の少女の内面が実際にあるわけではなく、脚本と平田の演出というプログラムに従って動いており、そこに差はない。もっとも、アフタートークで説明されたようにこのロボットは実際には舞台の裏側の俳優が遠隔操作しているので、いわばその俳優の「アバター」のようなものと考えることもでき、ますますその間には差がない。平田が現在すぐには無理だが、いずれは俳優をアンドロイドに置き換えることも可能だとしているのはそのためだ。 
 芝居の後のアフタートークでは日替わりで内容が変わるが、この日は石黒教授自身が登場しゲストと一緒にトークをした。なかでも興味深かったのは石黒教授がこのアンドロイド演劇がどのような仕掛けで行われているのか種明かししてみせるためにアンドロイドを介して、舞台の背後のどこかでそれを操っている俳優とゲストとの会話を見せたことで、ここで私たちは「俳優とゲスト」つまり、人間同士が交わしているという前提で見ているのだが、それも「そうである」という風に説明されている(そういうフレームで見ている)からそう見えるのにすぎない。しかも、俳優の表情とかは直接は見えないのだから、アンドロイドの表情からそれを読み取ることにならざるをえない。
 これはつまりは代理表象ということであり、演劇の本質も代理表象にあるということもできるから、対象に対する認知の枠組みはここでは演劇の場合も人間がアンドロイドを介してコミュニケーションを取る場合も同じだということがいえる。
さらに踏み込めば私たちが実体験において他者を認識する際はどうなのか。実はここにも差はないというのが、平田・石黒のコンビがアンドロイド演劇を通じて提示したいことではないか。通常無意識である他者に対する認識のあり方をアンドロイドと人間の俳優が同じ舞台に乗って共演するという仕掛けで可視化してみせるのがアンドロイド演劇の目的ではないかと思えてきたのだ。

中西理(なかにし・おさむ/演劇舞踊評論)

 

2014-09-29
ザガリーおばさん?ザガリーおじさん?え、何おじさん??|<KYOTO EXPERIMENT 2011 公式プログラム> ザガリー・オバザン『Your brother.Remember?』

<KYOTO EXPERIMENT 2011 公式プログラム>
ザガリー・オバザン『Your brother.Remember?』(2011年9月24日15時~@ART COMPLEX 1928)

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この作家について無知な私は、「ザガリーおばさん」という人なのかと思っていた。ところがチラシなどで確認してみると「ニューヨークを拠点に活躍する『ネイチャー・シアターオクラホマ』のメンバーとしても知られる、ザガリー・オバザン(1974~)のソロ・パフォーマンスが日本初登場」ということらしかった。ドキュメント性を取り扱う作家でもあるそうだ。開演時間になると、私の予想に反し、舞台には外国人男性の姿があった。これでは「ザガリーおじさんだ」などと思っていると、スクリーンには、パロディー映像に興じる少年ザガリーたちと青年(30代半ばだから壮年か)になった彼らが行き来している。

ジャン=クロード・ヴァン・ダム主演の『キックボクサー』(1989年公開)という映画とコナン・ル・シレール監督のカルト映画『ジャンク』の2つを元ネタにして、元ネタの映像、それらのパロディー映像としてのホームビデオ(兄弟で20年前に撮影)、さらにそのパロディー映像を同じキャストで再現した最近の映像、兄弟のドキュメント映像、そして舞台上でのザガリー・オバザンのパフォーマンスが、時に交互に時に同時に、進行していく。
つまり、「元ネタの映画」「古いパロディー映像(20年前)」「最近のパロディー映像(最近)」「兄弟の現在(最近のドキュメンタリー映像※)」「舞台のザガリー(現在)」をそれぞれ行き来する。それは元ネタと複数のパロディーの比較だけでなく、同時に「理想(?)」「遠過去」「近過去」「パロディーの裏側と時間経過の背景」「現実」と、観客は彼ら兄弟の時間経過を通じての変化をも追うことになる。
このパロディー映像がとても面白く、しょぼいホームビデオなのだが、格闘技映画『キックボクサー』を子どもがふざけてローテクで模写しようとする、(結果、無理・距離が生じる)小学生レベルのくだらなさの良さがそこにはある。そして撮影場所・小道具等を20年前の模写と統一するという方針により、「遠過去のパロディー映像(20年前)」と「近過去のパロディー映像(最近)」が比較されその差が浮き立つ。それは、彼ら兄弟の20年という時間の流れを見せられるということでもある。
 これだけで終われば、20年の時を経てもバカな遊びを共にすることが出来る微笑ましい兄弟、パロディーホームビデオの可笑しさ、ということで話は終わるのだが、差し挟まれる「ドキュメンタリー映像」の存在により、これらは別の意味を帯びてくる。俳優を目指していた兄弟だったが、弟は「今現在」観客に見せているような作品を創ることが出来る表現者となったが、兄は薬物中毒になり刑務所を出入りするようになってしまっていた。遠過去と近過去の中間は語られないが、この20年という時間。下らないパロディー映像でありながら、この2つのホームビデオを比較しつつ流す行為は極めて残酷だ。
さらに刑務所の中での生活を語る兄。刑務所でも彼は(20年前のように)下らない悪戯をしており、その内容の語り自体はバカバカしく面白いのだが、映像の中の彼が彼らが楽しげな下らない事をすればするほど、「何故、今、舞台の上には弟しかいないのか」を推し量ってしまう。舞台上の弟―ザガリー自身―の背景が浮き立ち、その存在が立体的に立ち上がって来る。
 またあまり言及はされないが映像には妹も登場する。妹はパロディー映像にもドキュメンタリー映像にも登場し、おっとりとした印象の彼女は、兄弟の過去や現在を微笑みつつ語る。兄弟と良好な関係の妹なのであろうが、兄と弟を定点観察するかのようなその存在は、まるで観客の視点を作品内に取り込んだかのようでもあった。我々も、彼女のように親愛と幾分かの複雑さを抱え今兄弟を観ている。
 それら映像が、舞台上のザガリーに集約されていく。
 映像<過去>の強い印象に対して、舞台上<現在>のザガリーのパフォーマンス(弾き語り等)が弱いのではないかと感じるが、そこは重要ではないのかもしれない。映像の中で兄弟は語る「(20年前にパロディー映像を撮り今回また撮ったから)また20年後に撮ろう」と。しかしあの薬物中毒の兄が、20年後も同じようにこういったことが出来る状態でいるのだろうか。それを考えずにはいられなくなる。今でさえ撮影中に薬物中毒の症状が出てしまっているではないか。この兄の20年後!?
 過去を見せ、比較し、それを眼前の現在に集約させた後、「未来」を考えてしまう。
 そう、映像(過去)と舞台(現在)を交錯させた結果、未だ見ぬ時間(未来)までをも射程に捉えることに成功した作品なのだ。
 「Your brother.Remember?」の「brother」を「friend」にでも置き換えれば誰にでも当てはまる普遍的なものだろう。20年前の「あの人」は、今どうしているのか、20年後はどうしているのか。その時に自分はどうなっているのか。思いを巡らせてしまう。「あの人」は20年後も健康であろうか。今と同じに笑い合える関係でいられるであろうか。誰だって考えたことがあるだろう。考えてしまうだろう。

20年後、きっとザガリーはもっとおじさんになっているだろう。名実共に「ザガリーおじさん」に。私も、もっとおじさんになっているだろう。などと思いながら会場のART COMPLEX 1928を後にすると、そこではいつものように「クレープおじさん」というクレープ屋さんがクレープを売っており、もう「何おじさん」なのかわからなくなった。私は「何おじさん」になっているのだろうか。私の友人は「何おじさん」になっているのだろうか。わからないが、おじさんになっていることは確かだろう。生きてさえいれば。

※アフタートークでのザガリーの言葉を信じるなら、このドキュメンタリー映像には演出は入っておらず、過度の編集もされていないものらしい。本稿はザガリーの言葉を信じるという前提で書く。

坂本秀夫(さかもとひでお/ライター・研究者・演劇フリーペーパー「とまる。」誌上で連載中)

 

2014-09-29
悪役の中にこそある「人間性」| KUNIO09『エンジェルス・イン・アメリカ』他

※ 作品タイトルは複数のため作中に明記
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 我々はなぜ芝居を観ながら「悪役」に惹かれるのだろう。思い付くことはあっても現実では許されない行為を、フィクションという安全弁付きで見せてくれる爽快さからかもしれない。そしてその行為を通じて、ある意味での「人間性」を感じさせてもくれるからではないか。
 KUNIO09『エンジェルス・イン・アメリカ』(作:トニー・クシュナー、訳:吉田美枝。演出:杉原邦生)を、休憩込9時間半の通し上演で観た(9月25日 京都芸術センター講堂)。この大作については翻訳が出版された第一部に
のみ目を通したことはあったが、上演を観たのは今回が初めてである。かつては「新劇」の専売特許であったろう社会派の現代劇を多くは二十代と思われる演劇人が取り上げ、緊張感のある舞台を創り上げたことは快挙だろう。80年代のアメリカを舞台とし、さらに膨大な情報が台詞の中に盛り込まれた作品でありながら、距離感に臆せず真正面から取り組むという気概が伝わって来た。
 第二部でリベラルなユダヤ人でゲイのルイス(松田卓三)が、新しい恋人で弁護士のジョー(澤村喜一郎)を責め立てる。ここまで反動的な判決に関わって来たのかと。相手の私生活がどうあろうと主義主張では譲らない姿からは、日本人が曖昧にしがちなものを突き付けられた思いがした。その一方天界をからめながらもアメリカ=世界のように描かれている点では、やや限界も感じたものだが。
 そしてこの舞台で圧倒的な存在を示していたのは、作者に立場が近いと思われるルイスでも、エイズから生還する主役・プライアー(田中佑弥)でもなく、実在の保守派の黒幕である弁護士ロイ・コーン(田中遊)。マッカーシーの腹心としてローゼンバーグ夫妻を処刑したことを誇るような彼は実はゲイ。だが「俺には影響力がある。だからホモとは言わない」とエイズであることを隠して闘病を続ける。受け容れ難い人物の筈なのだが、エキゾチックで苦み走った風貌の田中が、自信に満ちた態度で華麗なまでに罵倒語を散りばめた台詞を間髪入れずに繰り出す姿に、とにかく惹き付けられてしまった。出演者の中で唯一、年齢その他から来る役柄との距離を感じさせなかった。そんな彼が息子のように思っていたジョーもゲイだったと知り打ちのめされ、死に追いやった人物の幻影に悩まされながらも、最後に悪態をついて死んでいく。マクベスやリチャード三世を思わせた。
 約二週間後に、チリの亡命作家アリエル・ドーフマン作『WIDOWS~谷間の女たち』の、VOCE企画による上演を観た(水谷八也訳、山本つづみ演出。10月10日関芸スタジオ)トニー・クシュナーが「共作者」と言える役割を担った作品である。02年に劇団大阪による上演を観ているが、今回も感銘を受けた。
 軍事政権下のチリらしいが時代も場所も明確でないある村、成年男子は全て軍部に連れ去られ、女子供だけが残っている。そして老女ソフィア(末永直美)は毎日河岸に腰を下ろし、父親を、夫を、息子を待ち続けている。ある晩流れ着いた腐乱死体を彼女が「父です。埋めさせて下さい」と言い張ったことがきっかけとなって、女達全員が死を覚悟で立ち上がるのだが。
 同時代の問題を『トロイアの女たち』を思わせるギリシャ悲劇の様式を取り入れて骨太に描いた戯曲を、力強く立ち上げていた。カンパニーの主宰者である末永は目を離せない気迫に満ち、鴻池央子(関西芸術座)・演出の山本等他の女優達も実力を発揮した。
 だが唯一最大の不満は、ソフィアと並ぶ主役である隊長(元M.O.Pの岡村宏懇)。彼はまず「過去を忘れ未来へ向かおう」という被害者から見れば虫のよ過ぎる、だが体制内の人間としては精一杯の姿勢で村人に手を差し伸べる。だが女達は男達を帰してくれと主張し、一方富裕層の一員である副官(松蔵宏明)は生ぬるいと突き上げて来る。劇団大阪での清原正次の苦悩ぶりは忘れ難い。だが岡村はアイパッチに耳障りな発声と、ラストの役割から遡ってまず「悪役」として演じているようだった(実際自身のブログで「めちゃくちゃヒールな敵役」と書いている)。個人としては良心を持ち合わせた人間が拷問や虐殺を行うという複雑さが薄まってしまった。
 そして身近で親しみ易い「悪役」を現出させたのが、劇団えびふらい『太鼓たたいて笛ふいて』(作:井上ひさし、演出:井之上淳。10月13日メイシアター小ホール)。吹田の市民劇団出身の女優3人による集団がプロの応援を得た公演。井上が今年まで生きていたら何を思ったかが、伝わって来る舞台だった。
 林芙美子(西川綾子)を通して「文化人の戦争協力」を真正面から取り上げた作品で西川は柄を生かし力演、母キクの戸口基子は達者さで、島崎こま子の渡邉純子はひたむきさで支えた。だが舞台を成功させたのは、様々なメディアを渡り歩き芙美子を唆す三木を演じた坂口修一。いるだけで善人を演じてしまえる風貌の彼が、戦時中は「戦は儲かるという物語」で国民をまとめろと、朗々と歌い熱弁を振るう。そして戦後は何食わぬ顔で「新生民主日本」の宣伝に努め、芙美子が死ぬとよき理解者として追悼文を書く。個人としては人間味溢れる人物が集まって、国家を動かしていく「悪」を成立させる。そのことを実感させてくれた点では、こまつ座で演じた木場勝己以上だった。
 「お偉方」の作った「物語」を一般人が信じ込みついて行く。その「物語」の一つが「ウソッパチ」で国自体を滅ぼしかねないことが分かりながら、また別の「物語」が出て来ればすがろうとする。そういった「物語」を作ることも信じることも愚かであり、しかも自他共に傷付ける「悪」なのだ。

星野明彦(ほしの・あきひこ/)

 

2014-09-29
空間と何ものかの力|今貂子+倚羅座『而今の花』

今貂子+倚羅座『而今の花』(2011年10月23日13時公演@西陣ファクトリーGarden)

撮影:三村博史

撮影:三村博史

 今貂子+倚羅座は、2000年の結成以来、社寺、美術館、野外等の様々な場所で活動してきた。2007年からは、大正時代に建てられた五條楽園歌舞練場で、鏡板や欄干のある桟敷など独特の舞台機構を生かし、場の雰囲気を個々の身にまとうようにしながら、非常に密度の高い作品を発表し続けている。
 一方、彼女たちが2010年のアルティ・ブヨウ・フェスティバル・セレクションズに出演した時の『遊ぶ女たち』は、率直に言ってそれほどには興奮を誘うものではなかった。ろくろ首にせよ、転生の美女にせよ、登場するのはそれなりに夢幻的な存在なのだが、アルティという現代的な空間には、何だか取って付けたように見えてしまった。それら夢幻が本当の意味で出現するためには、それなりのしつらえが必要なんだろうということと、舞台上の彼女たちの存在は、やはりそこにある身体の存在を超えた、目に見える以外のものであることによって成立しているのだなと、再確認することになった。
 さて、今回は織物工場跡の西陣ファクトリーGardenが会場ということで、観に行く前から腑に落ちてはいたのだが、全く予想外だった趣向が二つある。一つは舞い手が梁に登ったこと、もう一つは囃子方の二人による手踊り。
梁というか、織機の一部でも設置されていたのか、床の張られていない二階とでもいうような造りになっている。一人の舞い手が地面を離れることで、いともたやすく鮮やかに、彼女たちがこの世のものではないことが、改めて明らかになった。しかもそれは必然であるよりは、偶々の悪戯のように露わにされた秘密であった。
 悪戯、戯れ。……三味線を抱えていた二人がすっと現れたかと思うと、左右に分かれて向き合い、手踊りのように戯れ始めた時には、ポンと異空に飛んでしまったような浮遊感に襲われた。それは逸脱でも侵犯でも、ましてや素人芸の微笑ましさというものでもなく、大げさではなく、異次元の立ち現われのようだった。舞踏の身体と空間ばかりを注視していた意識に、するりと間隙を見つけて貫入してきた、音楽を司る者たちの身体の新鮮さ。
 その新鮮さを浴び、受け入れることによって、半裸と着衣の二度にわたる今貂子のソロが、ひときわ濃密で鮮やかな色彩を帯びたのは、舞い手と観客双方の感覚が鋭敏に研ぎ澄まされたからだろう。そのソロがものすさまじいのは、ただ憑依だとかいって外部から訪れるものに身を委ねるのではなく、内部からのほとばしりが何者かを摑まえて体内に引き込んだ果ての現われのようだからだ。
 今のソロのみならず彼女たちの舞踏が、近年急速に充実の度を高めているのは、五條楽園という場との出会いによるに違いなく、西陣ファクトリーGardenとの出会いも、また大いに力となるに違いない。彼女たちの舞踏が、サイトスペシフィックというのとはまた別の方向で特有な空気を持った場を必要とするのは、その場から現われる何ものかとの出会いこそが、それを本当の意味で成立させるからに違いない。

上念省三(じょうねん・しょうぞう/ダンス批評)演劇、宝塚歌劇、ダンス批評。「ダンスの時間プロジェクト」代表。神戸学院大学、近畿大学非常勤講師(芸術文化特別講義、舞台芸術論、等)。http://homepage3.nifty.com/kansai-dnp/

 

2014-07-22
岡田利規の演劇実験の位置|あうるすぽっとプロデュース『家電のように解り合えない』

あうるすぽっとプロデュース『家電のように解り合えない』(9月25日 あうるすぽっと マチネ)

撮影:青木司

撮影:青木司


 人間関係の理解を疑い客体化して問いかけた作品が、フェスティバル/トーキョー11参加作品の『家電のように解り合えない』である(作・演出=岡田利規)。電化製品にまつわる詩集『風姿家電』を出版した城之内小百合子が自作の詩を暗誦する傍らに、ダンサー・森山開次が動き回る。空間には、朗読テーマであるカラフルな掃除機や冷蔵庫が雑然と並ぶ。最後には、中央にある機器から泡が吹き出るなど、舞台表象はシュール。だが内容は、ダンサーと俳優は分かり合えるのか、さらには両者が融合し第三項の世界を出来させることはできるのかが〈分かりやすく〉問われており、決して難しくはない。

 そのことを象徴するのは、森山開次のダンスを見ながら小百合子1が冷たく突き放すシーンである。森山は家電を表象したダンスを踊っているのかもしれないし、はたまた全然別の意図で動いていたのかもしれない。しかし、小百合子1は「私は、感性が貧しい人間だから、解らないわ」とそっけない。その時、森山のダンスを理解しようとしていた思考が停止する。そして、このダンスは意味不明なものであり分からなくていいのだ、という安心感を観客は得る。もうひとつ別のシーン、人物AとBが互いに分かり合っているとして、それを見るCにはそのことが伝わっていると言えるだろうか、という箇所。その際、舞台後半で同一人物であることが判明する小百合子1と2は、とても日常では見かけないような奇妙な動きで、仲の良さを表現する。その後「……このように解り合ってます」と言い放つ。こういったシーンの積み重ねが、人と人は分かり合えないかもしれないが、その努力を惜しんではいけないというメッセージへとつながる。最後は「解り合えるとか解り合えないとかの問題は、ここ(筆者注・劇場)を出てから始まるのです」と、観客に問題提起して幕が閉じられる。

 岡田利規の作品は、『わたしたちは無傷な別人であるか?』(2010年)以降、直截的なメッセージを強く打ち出すようになってきた。今作においては、不断の努力が必要という、当たり前すぎる結論を観客に投げかける。それ自体、もっともすぎる意見であるため、納得するしかないし反論の余地はない。テーマ主義的に見れば非常に〈分かりやすい〉のである。このテーマは、岡田利規-森山開次、森山開次-安藤真理&青柳いずみ、そして作品-観客と何重にも入れ子になって作品に通定している。

だが、ここにひとつの罠がある。作品テーマは分かりやすいと我々が判断したとして、果たして本当にそれで作品を分かったことになるのか、どこまで行けば本当に分かることになるのだろうか、というのがそれだ。それを考え始めると答えの出ない迷路へ入り込んでしまう。「分かり合うとは何か」が支柱である以上、作品を肯定するにしても否定するにしても反対意見が頭をもたげる。いわば作品の中に、両論が既に併記されているのだ。私たちにできることは、ロジックゲームに参加することだけ。その果てに、分かり合うための努力が必要だというラストメッセージに再度納得させられてしまう。そう、この作品は演劇構造の異化を行い、観客を覚醒させて思考を促すもののように思われるが、その実、答えはあらかじめ用意されている。そのため、観客が入り込む余地はない。既に作品内で自己完結しているのだ。つまり、岡田利規という神の視点が明確にあり、その手の内から外へと思考を広げることはできない構造になっているのである。

 先ほど触れた努力というテーゼは、俳優が森山開次のようにしなやかに踊ることはできるのか、という実験の場で表れたものである。森山が振り付けたダンスを音楽にのせて二人の女優が踊る。しかし、身体の硬い二人の動きは、森山の意図したイメージとズレてしまう。たまらず森山が手本を見せる。それに合わせて二人も踊るのだが、余計に違いが際立ってしまう。そのあまりの違いには笑わせられる。技術向上の努力さえがあれば、ダンス下手な俳優でもダンサーのように踊ることは可能か、という問いがここには孕んでいる。
 見落としてはならないのは、私たちはこの時「3人のダンス」を見ているということである。俳優がダンサーの踊りになるにはどうすればいいのか、その可能性と不可能性は、確かに人と人とがいかにして分かり合えるかという作品テーマに沿ったものではある。しかし、その前段までのこと、すなわち発語する俳優の周りを森山が踊っているという状況においての分かり合える/合えないという問題が捨象されている。3人がダンスというひとつの要素に向うことよりも、「2人の俳優+ダンサー」の相互理解を探ることの方が、隔絶が大きい分だけ困難だ。本当に追求されるべきなのはこの点ではないだろうか。

ダンサーと俳優の共同創作という問題は、例えば地点が山田せつ子と安部聡子の組み合わせで断続的に行っている(直近では2011年8月31日~9月4日までシアタートラムで公演された『トラディシオン/トライゾン』)。俳優とダンサーが競演した場合、俳優の語りにどうしても意識が向いてしまう。本作でいえば、冷蔵庫なら冷蔵庫の詩を語る俳優の言葉と内容に、観客の意識が集中してしまう。ダンスはその時、ほとんど風景と同一のものとなる。それを回避し、ダンスに注視させる方法としては、俳優もダンスを踊ることは有効だ。しかし、それは軸足がダンスに移り焦点が1つになったためである。そのことはつまり、俳優とダンサー両者の融合は、どちらかのフィールドに限定することでしか実現しないということを示しはしまいか。そういう意味で件のダンスシーンは、テーマを体現してはいるが演劇の重要な点が後景に追いやられている。

 さらに言うと、俳優とダンサーの不合一ということは、岡田利規が理想としてきたものではなかったか。思えば『三月の5日間』でチェルフィッチュが注目されたことのひとつが、だらだらとしたノイジーな身体と超現代口語であった。岡田は2005年7月号の『ユリイカ』で、俳優から出力された身振りと言語(声)はバラバラであることが良いと述べていた(「演劇/演技の、ズレている/ズレていない、について」)。俳優は往々にして台詞を発語する際、声と身振りが一対となっている。それは、台詞にふさわしい声と身振りを言語解釈の過程で探るからである。それは、上位概念に据えられた台詞に、声と身振りが奉仕しているに過ぎない。だが、日常生活において、我々は言葉と身振りがピタリと合った喋り方を必ずしも行っているわけではない。そこから岡田は、言葉と身振りが発生する源泉を台詞の意味内容ではなく、様々な要素が貯蔵されている〈イメージ〉を措定する。そこから取り出された言語と身振りは対にはなっていないが、イメージを共有しているために同じベクトルである。しかし、両者はピタリと対応していないために距離が生まれる。距離は生まれるがどこかでつながっている声=言語と身振り。そのアンバランスな両者を俳優が体現することで、一つの意味に収斂され得ない、ふり幅のある身体の多様性を表出することができる。岡田が先のエッセイで記していた大筋はこのようなものであった。

それを踏まえると、岡田はダンサーと俳優の融合にまつわる試行を、個々の俳優で既に実験していたのである。今作の終盤、登場する二人の女性は一人の詩人だったことが示される。人と人が分かり合うこと、それを客体化できるのかという問題は、自分は自分を本当に知り尽くしているのか、という自身の問いへと最終的に敷衍する。そしてこのことは、他者を知ること、自分を知ることが不可能だとしても、それでも不断に分かるための努力を行うことが重要という、本作が持つテーマへと接続される。作品内容に関しては、極めて賢く創られている。しかし、岡田利規の演劇実験は、未だ『三月の5日間』で見出した地平の上にあるのではないかと思わされた。

藤原央登(ふじわら・ひさと/劇評ブログ『現在形の批評』主宰・[第三次]『シアターアーツ』編集部)

 

2014-07-22
再生の祈りをこめて|いわき総合高校演劇部『Final Fantasy for Ⅺ.Ⅲ.MMⅪ』

いわき総合高校演劇部『Final Fantasy for Ⅺ.Ⅲ.MMⅪ』(2011年10月10日@Art Theatre dB神戸)

撮影:清水敏洋

撮影:清水敏洋

 福島県立いわき総合高校総合学科にはカリキュラムの一環として芸術・表現系列(演劇)がある。五反田団の前田司郎やままごとの柴幸男、東京デスロックの多田淳之介など東京の若手演出家がワークショップや作品創作を行うことでも近年話題になっている。今回、神戸・新長田で上演した演劇部は、その中でもさらに演劇に取り組みたい学生が放課後に行う課外活動だ。

 高校演劇がいわゆる一般的な演劇と違うのは、劇を創作するチームであると同時に、普段は一緒に勉強するクラスメイトでもあることだ。テストの成績に一喜一憂することもあれば、居残りで掃除をさせられることもあるかもしれない。隣のクラスの誰それが好きという恋バナで盛り上がることもあるだろう。ともあれ、そんな生活の延長にクラブ活動としての劇がある。その姿勢が時にプロの俳優さえも凌駕するような瞬間を持つのは、劇世界の役を越えたところで、高校生の実直さやエネルギーがストレートに舞台に表れるからだろう。

 しかし、生活そのものがいっぺんに変わってしまったとしたら。生活に寄り添っていた演劇はどう変わってしまうのか。

 3.11以降、「演劇は被災地に何ができるか」というテーゼが繰り返される。チャリティーという形で直接的な手助けを模索する者、「自主規制」というムードに声高に抵抗する者、その距離の取り方は様々だ。しかし、生活と隣り合わせの現場で演劇を創作する福島県立いわき総合高校は、被災したことによって、自分たちの演劇そのものを変えなくてはいけなかった。変わらざるを得なくなった演劇で、彼らはどのように刻々と移りゆく現実に向かいあうのか。今思えば、私の関心はそこにあったように思う。

 舞台は、被災後の高校の教室。女子高生のひろこは、津波で友人のきりかを亡くした。助けることのできなかった自分に負い目を感じているひろこには、亡くなったはずのきりかが見える。お弁当箱に入ったプチトマトをきりかに食べろと言われるひろこ。ひろこはプチトマトが嫌いらしい。そこに良輔、崇太、泰規ら三人の男子高生が登場。テンポよく畳みかけられるセリフの応酬は、教室の楽しげな雰囲気をそのまま表しているようだ。彼らは、危険構造物の指定を受けた北校舎に、「復活の呪文」があるという情報を聞き、ひろことともに足を踏み入れる。『Final Fantasy』というタイトルが示すように、テレビゲームの世界よろしく、ホアン保安院と名乗る女三人組、元東電社長、ゲンシーロや原子力を推進するフランス大統領がモンスターとして登場する。

 この筋書きを今時の高校生が紡いだ二次元の産物と受け取ることはできない。彼らの身の周りで起こっている事は、嘘のような本当の出来事である。いわき総合高校は、東京電力福島第一原発から約45kmの距離にある。東日本大震災で北校舎は危険構造物となり使用できなくなった。警戒区域内に自宅のあった出演メンバーもおり、引越しを余議なくされたという。高校の文化祭はこの震災で中止になった。風評被害の影響もあり、心ないデマのせいで「好きになった人と結婚できないかも」という不安を抱える高校生もいたらしい。いわきの高校生は、演劇の力を借りながら、そんな非日常に自分たちの身体と言葉で抗おうとする。

 例えば、原子炉を戯画化したゲンシーロと呼ばれるモンスターに立ち向かうときだ。放水作業もままならず、ゲンシーロへの対処法が分からない男子高生は、ふとした弾みに「寒いギャグ」を言えば、モンスターが冷却されることに気づく。布団がフットンだ、校長絶好調というギャグに続き、ゲンシーロ、いいかゲンにシーロとギャグを繰り出しモンスターを追い詰める。ユーモアを交えた馬鹿馬鹿しい場面だが、ギャグをいう高校生の表情は真剣そのものである。心底いい加減にしてほしい現実。「君たちに未来はない」と言い放つモンスター。この場面だけでない、元東電社長やフランスの大統領に立ち向かう高校生が見せる素顔には、虚構のストーリーを借りながらも、どこへぶつければよいか分からない怒りがはっきりと表れていた。

 鋭い社会諷刺が行われているわけではない。それでもこの作品が意義深いのは、震災によって失われた物を、彼らが必死に取り返そうとしていたからだ。復活させようとするのは、実際に中止になってしまった「俺たちの文化祭」である。ひろこが回想するきりかとの思い出も、これまでの何気ない日々に支えられている。たわいもない口喧嘩や一緒に埋めたタイムカプセル、片耳ずつイヤホンをしながら流行りの曲を聴いて、お弁当を食べた日。彼らが本当に求めているのは、メディアが連日報道している責任の所在ではなく、これまでの当たり前の日常だ。カードゲームの力を借りながら、必殺技コマンド「国民の思い」でラストボスを退治する高校生たちは「俺たちの文化祭」を取り戻す。劇の役を越えて、文化祭でできなかったプロレスをする男子高校生の姿は、本当に奪われた日常を楽しんでいるようで胸を打たれた。

 もっとも、虚構のモンスターを倒したところで本質的な解決にはならないだろう。幕切れ、きりかとの別れを悲しむひろこの慟哭は、まだ十分に受け入れることのできない多くの被災者の思いを体現しているようだった。戻りたくても戻れない現実は大きくのしかかる。けれども、高校生は自分たちの体験を拠り所にしながら、一心に再生の願いを舞台上に発露する。

 その願いは決してリアリティのないものではない。カーテンコールで涙ぐむいわきの高校生。この公演が終われば、すぐ夜行バスで福島に戻り、普段の授業を受けるらしい。怒りを鎮めることも、静かに鎮魂することもままならない中、現実においても劇世界においても彼らは日常を取り戻そうと奮起する。生活と隣り合わせの演劇だからこそ、物語は説得力を持った。

 終演後歩いた新長田には鉄人28号が聳えたち、多くの親子連れでにぎわっていた。阪神大震災から16年かけてこの街も復興をした。演劇は即座に人命を救助するようなものではないし、その効果がいつ現れるかは分からない。しかし、10年、20年先の未来へむけて、いわき総合高校の上演はこの先の長い指針となる意義のある作品だった。

(須川渡・すがわわたる/大阪大学大学院文学研究科博士後期課程)

 

2014-07-22
別の演技は、観客と別の関係を結びうるのか|ルネ・ポレシュ作・演出『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』

ルネ・ポレシュ作・演出『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』(9月24日@豊洲公演西側横 野外特設会場)

(C)片岡陽太

(C)片岡陽太

はじめに
 エントランスを通り抜けると、客席の前方と左右はつうつうで、今そこを抜けてきたばかりの光景が開けている。むき出しの埋め立て地には、手前から奥へスクリーン、数台の車、小さな舞台や広告塔らしきセットがまばらに置かれ、その背後には都心のビル群。この虚実の境目が曖昧な映画都市に、観客は隠れるところなく身を置き、同じ空間で都市の論理に曝され行為する人々を追うことになる。従来の鑑賞の枠組みを揺さぶろうという作品の狙いは明らかだ。同様の野心を持つ作品は、すでに現代演劇には溢れかえっているように思われる。一方で、作品への観客の関わり方は、それに伴い多様化しているとは言い難い。むしろごく最近でさえ、他のカルチュラルグッズと同様の一種の消費の形態へと方向付けられてきたのではあるまいか。ならばそもそも私たちは、なぜ劇場へ、祭りへ足を運ぶのだろう。このような疑問をより大きな問題系の中でつきつけてくるのが、本作である。

1) 俳優による俳優の俳優のための演劇 
 まずは導入部に基本の設定を見ておこう。冒頭では前触れもなく、セットの一部である軽自動車とトレーラーが走りだし、上手側からパトカーが出動する。カーチェイスが始まるのかと思いきや、手狭な広場でぐるぐる回るどれがどれを追っているのかは判然としない。次いで登場する女優帽を被った女は、「ここ」はローマの由緒ある映画撮影所で、自分は映画を撮るために来たのだが、誰もいないし、セットや道具やあれやこれやが「ない」とふれて回る。この設定に合点がいったところで、別の女優とおぼしき女が登場して混ぜ返す。「ここ」で行われるのは演劇のはず、なのに回り舞台が「ない」ではないか、と。二人ともないものばかりを論うのはなぜなのか? 映画なのか演劇なのか? うやむやのまま他の俳優も加わり、話題はいずれであれ彼らに共通する関心、つまり「何を演じるか」へなだれ込んでゆく。そこでもまた、これこれの人物をやるには同様の外見上の特徴がないだの、復興劇をやるには歴史的衣装が要るだの難癖をつけ合い、ならばと別の人物や俳優が次々呼び出され・・・という交代劇がひとくさり。この間、車の中からカメラが俳優たちの姿を追いかけ、その様子は字幕と兼用のスクリーン上にライブ中継されるようになっている。

 総合すると『無防備都市』は、様々な役に挑戦する俳優(たまに監督やスタッフ)に扮する出演者たちが、カメラの目と観客の目の間を行き来して、演技とそれをめぐる考察をライブで披露する作品となる。つまり、プロの俳優たちが、自らが当事者である問題について、注釈を交えて実演するという趣向だ。同時にここまでで呑み込めたのは、作中、彼らの演じているもの—人物像、場面設定、アンサンブルにおける役割など—が、めまぐるしく変化するということ。次第にパターンとして認識されてゆくのだが、本作には、演じる者/演じられる役の関係を流動化する契機がこれでもかと埋め込まれている。

 例えば、冒頭のトムとジェリー風追いかけっこは、続けざまに女優と撮影機材との間でも繰り返されている。マイクを掲げて必死についてくる音声係をさんざん振り回しつつ、女優は言い放つ。「マイクはどこよ? ないと声が枯れる!」他愛もない場面のようだが、このような二つ巴、三つ巴の関係は、周到に組まれ随所に盛り込まれている。そうして生じる立場の反転や、場合によると権力関係の転倒は、一貫して作品を滑稽な調子で彩ってくれてもいる。

 俳優たちはまた、一作品の中では類をみないほど演じる役を取り替えるが、それは第一の女優が説明したように、ここが映画の撮影所だからである。この大枠の中で、ロッセリーニの伝説的三部作やドイツの有名なテレビシリーズ『赤い土』などの場面が次々と転用され、さらに個々の現場でも設定や役割が変わってゆく。例えば、とある撮影現場では、決定を下す監督役がいない、必要だということになり、男性の一人がカチンコを持たされるが、いざ撮影が始まると次の台詞を言う役を演じる者が足りないことが判明し、慌ててその役を引き受けさせられたりする。映画の撮影現場らしく、これら頻繁な場面のカットとスタートの間に意味や感情面でのつながりはないが、そのことにより本作は、映画俳優の仕事の要所を切り取り、かつ不連続な事象から物語をねつ造するという、後に批判される歴史の実態を暴露してもいる。

 このような映画の特性は、第二の女優が持ち出してきた演劇との対置によっても際立たせられる。例えば目の前では通しで演じられているにもかかわらず、スクリーン上では断片化する俳優たちの演技は、映画と演劇を、対照的な産業形態、競合するメディアとして印象づけるし、そこには実演モードと注釈モードの切り替えによって明示される、演じられた虚構/演じている現実といった含意も重ねられるだろう。そして、この映画と演劇という枠組みのとり方によっても、俳優たちの行っていることの意味合いは変わってくる。

 以上のように、本作の主題である「演じる」という行為は、不断に切り替えられる場面や枠組みなど、大小複数の設定の中に置かれている。したがって、「ここ」がどこで、「彼/彼女」らが何を演じるのかといったことがしばしば話題にされるものの、それが一つに定まることはない。むしろ俳優たちの演技は、固定した人物の行為や内面に統合されないマルチタスクに分節され、それを希有なやり方で遂行する身体には、設定ごとに異なる緊張関係を結ぶ意味が引き寄せられてゆく。本作を牽引するのは、このような複雑な論理の絡み合う演技のダイナミクスに他ならない。

2)映画都市の現実 〜プレカリアートか自由業か〜  
 上記のような演技を追う中で、浮かび上がってくる問題系に目を向けてみよう。先に触れたように、映画都市では映画俳優たちの演技の、仕事としての側面が切り取られており、併せて「演じる」ということをめぐっては、労働やビジネスの観点から、多くの問題が提出されている。実のところ、高速で吐き出されるテクストには、スペクタクル産業の実態と批判理論を参照する、追い切れないほどの注釈が含まれているのだが、その矛先はおおかた歴史と資本主義へと向けられているようだ。数分に一度は訴えられる「ない」の意味合いはそれぞれ多義的に読めるが、並べてみるとそのことは一目瞭然。カメラ、マイクなどの機材、水、電力、シャワーの湯といったライフライン、そして歴史的風景、歴史的衣装、歴史的身体、歴史的・・・。確かに映画は、行為する者とそれを見る者がいれば成立するとされる演劇とは対極に、必要とする資本も生み出す資本も規模が大きい。かつそれは、勝者の物語としての歴史をねつ造し、さらに既存の歴史から権威を得て物語を強化・再生産する産業とも言える。このように、俳優たちが自分たちの労働環境として提示しているのは、すでにそれぞれ矛盾や欺瞞を孕んだ二つの生産システムが、手を組んで近代に肥大した権力機構だということになる。

 そこで俳優たちは、システムの要求に従って「ただ機能する」にすぎないが、その際執拗に求められるのは、一つには、「ホーキング博士といえば鼻のニキビ」といった類の、あてがわれる人物像と合致する外見上の特徴であり、もう一つは、「歴史的身体」が備えるようなカリスマ的権威や魅力である。このような力がないと訴えるたび、俳優たちは、複製技術の台頭と連動して変質した礼拝価値を呼び出して、自身と自身が従事する映画に商品価値を与えようとしているかのようだ。いずれにせよ、役を選ぶ権利もなく、与えられた役を内面化するいとまもなく、あちこちの現場を渡り歩く俳優にとって、まさに資本は身体だけなのであり、そこで機能しようとすると、身体を個々の設定に従わせて断片化するほかない。つまり、プレカリアートが生産者として主体的に自らの商品価値を上げようとすると、自らの身体を客体化して搾取することになり、そうした果てに彼らが達成するのは、資本によってねつ造される物語に、真正性と権威を粉飾する仕事となる。つまり、機能するほどにそれと知らず非人間的なシステムの増強に貢献するという矛盾に陥るのだ。こう考えてくると、本作で再現を試みられるネオレアリズモのヒューマンドラマなど、レジスタンスもまた、この機構に飲み込まれてしまうという、映画都市における矛盾の最たる例である。終盤で連呼される、「ロッセリーニは、子供たちが命を大事にできるようにこの映画を作ったのよ」は皮肉に響く。

3)プレイとロールプレイあるいはタスクのあいだ
 以上のように、この都市の末端労働者としての俳優を取り巻く状況は苛酷である。一方で、彼らは矛盾を身をもって指し示すにとどまらず、同時並行で、ダブルバインドの状況を生き延びる術のようなものも実践しているように思われる。それは、このスペクタクル産業において機能することを、あらゆる場面で拒否すること、さらに目的主義、完璧主義そのものを無化することによってなされる。

 映画撮影所という枠組みの中で再現される映画が、歴史性やポピュラリティといった権威を帯びたすぐれた商品であることは、すでに述べた。その筆頭である『無防備都市』は、映画史に名を残し、今日テレビドラマにいたるまで支配的となった演技の規範を確立した。さらにそれらに共通するのが、全体主義や戦争、貧困などの支配下にある市民の抵抗という、高貴な主題である。これにより当然として目的化される忠実な再現なるものを、ポレシュの俳優たちは、こぞって未完に終わらせる。そのためには、まず端的に失敗してみせるというやり方がある。例えば、台詞につまってプロンプターの助けを借りてみたり、父親の死というドラマの頂点で吹き出してしまったり。そこだけ見れば、一見名作を茶化したパロディだが、本作においては個々の場面を早々にご破算にする一連のアクションの一つに過ぎない。あるいは、目的を全うするために必要となるものがないことをいち早く見つけ出し、完成が不可能であることを指摘するというやり方もある。こちらはその都度の設定を誰の責でもなく中断する契機となり、同時に完璧主義も無化する有効な戦略となる。というのは、個々の身体的な特徴がなにかしら欠けていると言っては演じる人物像が繰り返し取り替えられる時、その果てにはすべての特徴を満たす身体などあり得ない、つまり規範的な目的設定のほうに無理があることが露わになるからだ。こうして設定の更新が短いスパンで繰り返されると、俳優の演技は開始と同時に次の中断が予期されるような、運動の終点/目的を持たぬ自律性を備えた遊戯の様相を呈する。実際の俳優たちの演技に目をこらしてみると、ドラマ演劇におけるような没入型とは異なり、いついかなる時も中断でき、別の設定を接続することができる距離を保った、ごっこ遊びに近いものに見えてくる。このとき俳優は、うまく機能しようとする主体というよりは自動的な遊戯運動を持続させようとする主体として観察され、ならば消費、評価、読解などの対象となる「見せる」、「表現する」主体とはみなしえない。ここには、客体を生じ自分が主であることを維持しようとする主体のあり方に対し、別の関係を生み出す可能性が見いだされるのではないだろうか。

おわりに
 以上のように、このポスト・ドラマ演劇的なもろもろの手法は、権力機構の内部で機能することを、演劇ならでわの手法で拒否することへと明確に方向づけられている。『無防備映画都市』において、観客に差し出されているのは、欠損のある商品、読解の不可能なテクスト、対象化しえない俳優の存在である。

 したがって鑑賞者は、目の前の俳優たちの翻弄される身体から彼らが指摘する問題をたとえ「読みとった」としても、それを傍観するだけでは終わりとならない。ここに示されたスペクタクル産業の構造を敷衍すると、同様のシステムの一端に、作品や俳優という商品に向き合う自らの役割がまずは自覚されるからだ。それは特に、2000年以降の日本の文化シーンで、選択し消費する主体としての自己実現に方向付けられ、そのことに気づいていない観客には、反省の端緒となるかも知れない。翻って、そこには消費に対する抵抗として奨励されてきた、読解というかたちの観客の能動性に含まれる非対称性の問題も提出されているように思われる。何より、目の前の俳優たちが遊戯者として認識されるのなら、私たちは当事者に対し鋭く区別される傍観者ではない。俳優が興じる遊びのしくみ、ルール、タスクを徐々に手にしてゆくとき、さらに単に読んで理解するだけでなく、また考えるだけでもなく、そこに自分でも実践し得る知恵を見いだしてゆくとき、観客は、観察し、遊びのルールを共有し、見守る共遊戯者、さらにその先へとパースペクティブをたえずシフトさせてゆくのではないだろうか。

古後奈緒子(こご・なおこ/ダンス批評)