2014-07

2014-07-22
岡田利規の演劇実験の位置|あうるすぽっとプロデュース『家電のように解り合えない』

あうるすぽっとプロデュース『家電のように解り合えない』(9月25日 あうるすぽっと マチネ)

撮影:青木司

撮影:青木司


 人間関係の理解を疑い客体化して問いかけた作品が、フェスティバル/トーキョー11参加作品の『家電のように解り合えない』である(作・演出=岡田利規)。電化製品にまつわる詩集『風姿家電』を出版した城之内小百合子が自作の詩を暗誦する傍らに、ダンサー・森山開次が動き回る。空間には、朗読テーマであるカラフルな掃除機や冷蔵庫が雑然と並ぶ。最後には、中央にある機器から泡が吹き出るなど、舞台表象はシュール。だが内容は、ダンサーと俳優は分かり合えるのか、さらには両者が融合し第三項の世界を出来させることはできるのかが〈分かりやすく〉問われており、決して難しくはない。

 そのことを象徴するのは、森山開次のダンスを見ながら小百合子1が冷たく突き放すシーンである。森山は家電を表象したダンスを踊っているのかもしれないし、はたまた全然別の意図で動いていたのかもしれない。しかし、小百合子1は「私は、感性が貧しい人間だから、解らないわ」とそっけない。その時、森山のダンスを理解しようとしていた思考が停止する。そして、このダンスは意味不明なものであり分からなくていいのだ、という安心感を観客は得る。もうひとつ別のシーン、人物AとBが互いに分かり合っているとして、それを見るCにはそのことが伝わっていると言えるだろうか、という箇所。その際、舞台後半で同一人物であることが判明する小百合子1と2は、とても日常では見かけないような奇妙な動きで、仲の良さを表現する。その後「……このように解り合ってます」と言い放つ。こういったシーンの積み重ねが、人と人は分かり合えないかもしれないが、その努力を惜しんではいけないというメッセージへとつながる。最後は「解り合えるとか解り合えないとかの問題は、ここ(筆者注・劇場)を出てから始まるのです」と、観客に問題提起して幕が閉じられる。

 岡田利規の作品は、『わたしたちは無傷な別人であるか?』(2010年)以降、直截的なメッセージを強く打ち出すようになってきた。今作においては、不断の努力が必要という、当たり前すぎる結論を観客に投げかける。それ自体、もっともすぎる意見であるため、納得するしかないし反論の余地はない。テーマ主義的に見れば非常に〈分かりやすい〉のである。このテーマは、岡田利規-森山開次、森山開次-安藤真理&青柳いずみ、そして作品-観客と何重にも入れ子になって作品に通定している。

だが、ここにひとつの罠がある。作品テーマは分かりやすいと我々が判断したとして、果たして本当にそれで作品を分かったことになるのか、どこまで行けば本当に分かることになるのだろうか、というのがそれだ。それを考え始めると答えの出ない迷路へ入り込んでしまう。「分かり合うとは何か」が支柱である以上、作品を肯定するにしても否定するにしても反対意見が頭をもたげる。いわば作品の中に、両論が既に併記されているのだ。私たちにできることは、ロジックゲームに参加することだけ。その果てに、分かり合うための努力が必要だというラストメッセージに再度納得させられてしまう。そう、この作品は演劇構造の異化を行い、観客を覚醒させて思考を促すもののように思われるが、その実、答えはあらかじめ用意されている。そのため、観客が入り込む余地はない。既に作品内で自己完結しているのだ。つまり、岡田利規という神の視点が明確にあり、その手の内から外へと思考を広げることはできない構造になっているのである。

 先ほど触れた努力というテーゼは、俳優が森山開次のようにしなやかに踊ることはできるのか、という実験の場で表れたものである。森山が振り付けたダンスを音楽にのせて二人の女優が踊る。しかし、身体の硬い二人の動きは、森山の意図したイメージとズレてしまう。たまらず森山が手本を見せる。それに合わせて二人も踊るのだが、余計に違いが際立ってしまう。そのあまりの違いには笑わせられる。技術向上の努力さえがあれば、ダンス下手な俳優でもダンサーのように踊ることは可能か、という問いがここには孕んでいる。
 見落としてはならないのは、私たちはこの時「3人のダンス」を見ているということである。俳優がダンサーの踊りになるにはどうすればいいのか、その可能性と不可能性は、確かに人と人とがいかにして分かり合えるかという作品テーマに沿ったものではある。しかし、その前段までのこと、すなわち発語する俳優の周りを森山が踊っているという状況においての分かり合える/合えないという問題が捨象されている。3人がダンスというひとつの要素に向うことよりも、「2人の俳優+ダンサー」の相互理解を探ることの方が、隔絶が大きい分だけ困難だ。本当に追求されるべきなのはこの点ではないだろうか。

ダンサーと俳優の共同創作という問題は、例えば地点が山田せつ子と安部聡子の組み合わせで断続的に行っている(直近では2011年8月31日~9月4日までシアタートラムで公演された『トラディシオン/トライゾン』)。俳優とダンサーが競演した場合、俳優の語りにどうしても意識が向いてしまう。本作でいえば、冷蔵庫なら冷蔵庫の詩を語る俳優の言葉と内容に、観客の意識が集中してしまう。ダンスはその時、ほとんど風景と同一のものとなる。それを回避し、ダンスに注視させる方法としては、俳優もダンスを踊ることは有効だ。しかし、それは軸足がダンスに移り焦点が1つになったためである。そのことはつまり、俳優とダンサー両者の融合は、どちらかのフィールドに限定することでしか実現しないということを示しはしまいか。そういう意味で件のダンスシーンは、テーマを体現してはいるが演劇の重要な点が後景に追いやられている。

 さらに言うと、俳優とダンサーの不合一ということは、岡田利規が理想としてきたものではなかったか。思えば『三月の5日間』でチェルフィッチュが注目されたことのひとつが、だらだらとしたノイジーな身体と超現代口語であった。岡田は2005年7月号の『ユリイカ』で、俳優から出力された身振りと言語(声)はバラバラであることが良いと述べていた(「演劇/演技の、ズレている/ズレていない、について」)。俳優は往々にして台詞を発語する際、声と身振りが一対となっている。それは、台詞にふさわしい声と身振りを言語解釈の過程で探るからである。それは、上位概念に据えられた台詞に、声と身振りが奉仕しているに過ぎない。だが、日常生活において、我々は言葉と身振りがピタリと合った喋り方を必ずしも行っているわけではない。そこから岡田は、言葉と身振りが発生する源泉を台詞の意味内容ではなく、様々な要素が貯蔵されている〈イメージ〉を措定する。そこから取り出された言語と身振りは対にはなっていないが、イメージを共有しているために同じベクトルである。しかし、両者はピタリと対応していないために距離が生まれる。距離は生まれるがどこかでつながっている声=言語と身振り。そのアンバランスな両者を俳優が体現することで、一つの意味に収斂され得ない、ふり幅のある身体の多様性を表出することができる。岡田が先のエッセイで記していた大筋はこのようなものであった。

それを踏まえると、岡田はダンサーと俳優の融合にまつわる試行を、個々の俳優で既に実験していたのである。今作の終盤、登場する二人の女性は一人の詩人だったことが示される。人と人が分かり合うこと、それを客体化できるのかという問題は、自分は自分を本当に知り尽くしているのか、という自身の問いへと最終的に敷衍する。そしてこのことは、他者を知ること、自分を知ることが不可能だとしても、それでも不断に分かるための努力を行うことが重要という、本作が持つテーマへと接続される。作品内容に関しては、極めて賢く創られている。しかし、岡田利規の演劇実験は、未だ『三月の5日間』で見出した地平の上にあるのではないかと思わされた。

藤原央登(ふじわら・ひさと/劇評ブログ『現在形の批評』主宰・[第三次]『シアターアーツ』編集部)

 

2014-07-22
再生の祈りをこめて|いわき総合高校演劇部『Final Fantasy for Ⅺ.Ⅲ.MMⅪ』

いわき総合高校演劇部『Final Fantasy for Ⅺ.Ⅲ.MMⅪ』(2011年10月10日@Art Theatre dB神戸)

撮影:清水敏洋

撮影:清水敏洋

 福島県立いわき総合高校総合学科にはカリキュラムの一環として芸術・表現系列(演劇)がある。五反田団の前田司郎やままごとの柴幸男、東京デスロックの多田淳之介など東京の若手演出家がワークショップや作品創作を行うことでも近年話題になっている。今回、神戸・新長田で上演した演劇部は、その中でもさらに演劇に取り組みたい学生が放課後に行う課外活動だ。

 高校演劇がいわゆる一般的な演劇と違うのは、劇を創作するチームであると同時に、普段は一緒に勉強するクラスメイトでもあることだ。テストの成績に一喜一憂することもあれば、居残りで掃除をさせられることもあるかもしれない。隣のクラスの誰それが好きという恋バナで盛り上がることもあるだろう。ともあれ、そんな生活の延長にクラブ活動としての劇がある。その姿勢が時にプロの俳優さえも凌駕するような瞬間を持つのは、劇世界の役を越えたところで、高校生の実直さやエネルギーがストレートに舞台に表れるからだろう。

 しかし、生活そのものがいっぺんに変わってしまったとしたら。生活に寄り添っていた演劇はどう変わってしまうのか。

 3.11以降、「演劇は被災地に何ができるか」というテーゼが繰り返される。チャリティーという形で直接的な手助けを模索する者、「自主規制」というムードに声高に抵抗する者、その距離の取り方は様々だ。しかし、生活と隣り合わせの現場で演劇を創作する福島県立いわき総合高校は、被災したことによって、自分たちの演劇そのものを変えなくてはいけなかった。変わらざるを得なくなった演劇で、彼らはどのように刻々と移りゆく現実に向かいあうのか。今思えば、私の関心はそこにあったように思う。

 舞台は、被災後の高校の教室。女子高生のひろこは、津波で友人のきりかを亡くした。助けることのできなかった自分に負い目を感じているひろこには、亡くなったはずのきりかが見える。お弁当箱に入ったプチトマトをきりかに食べろと言われるひろこ。ひろこはプチトマトが嫌いらしい。そこに良輔、崇太、泰規ら三人の男子高生が登場。テンポよく畳みかけられるセリフの応酬は、教室の楽しげな雰囲気をそのまま表しているようだ。彼らは、危険構造物の指定を受けた北校舎に、「復活の呪文」があるという情報を聞き、ひろことともに足を踏み入れる。『Final Fantasy』というタイトルが示すように、テレビゲームの世界よろしく、ホアン保安院と名乗る女三人組、元東電社長、ゲンシーロや原子力を推進するフランス大統領がモンスターとして登場する。

 この筋書きを今時の高校生が紡いだ二次元の産物と受け取ることはできない。彼らの身の周りで起こっている事は、嘘のような本当の出来事である。いわき総合高校は、東京電力福島第一原発から約45kmの距離にある。東日本大震災で北校舎は危険構造物となり使用できなくなった。警戒区域内に自宅のあった出演メンバーもおり、引越しを余議なくされたという。高校の文化祭はこの震災で中止になった。風評被害の影響もあり、心ないデマのせいで「好きになった人と結婚できないかも」という不安を抱える高校生もいたらしい。いわきの高校生は、演劇の力を借りながら、そんな非日常に自分たちの身体と言葉で抗おうとする。

 例えば、原子炉を戯画化したゲンシーロと呼ばれるモンスターに立ち向かうときだ。放水作業もままならず、ゲンシーロへの対処法が分からない男子高生は、ふとした弾みに「寒いギャグ」を言えば、モンスターが冷却されることに気づく。布団がフットンだ、校長絶好調というギャグに続き、ゲンシーロ、いいかゲンにシーロとギャグを繰り出しモンスターを追い詰める。ユーモアを交えた馬鹿馬鹿しい場面だが、ギャグをいう高校生の表情は真剣そのものである。心底いい加減にしてほしい現実。「君たちに未来はない」と言い放つモンスター。この場面だけでない、元東電社長やフランスの大統領に立ち向かう高校生が見せる素顔には、虚構のストーリーを借りながらも、どこへぶつければよいか分からない怒りがはっきりと表れていた。

 鋭い社会諷刺が行われているわけではない。それでもこの作品が意義深いのは、震災によって失われた物を、彼らが必死に取り返そうとしていたからだ。復活させようとするのは、実際に中止になってしまった「俺たちの文化祭」である。ひろこが回想するきりかとの思い出も、これまでの何気ない日々に支えられている。たわいもない口喧嘩や一緒に埋めたタイムカプセル、片耳ずつイヤホンをしながら流行りの曲を聴いて、お弁当を食べた日。彼らが本当に求めているのは、メディアが連日報道している責任の所在ではなく、これまでの当たり前の日常だ。カードゲームの力を借りながら、必殺技コマンド「国民の思い」でラストボスを退治する高校生たちは「俺たちの文化祭」を取り戻す。劇の役を越えて、文化祭でできなかったプロレスをする男子高校生の姿は、本当に奪われた日常を楽しんでいるようで胸を打たれた。

 もっとも、虚構のモンスターを倒したところで本質的な解決にはならないだろう。幕切れ、きりかとの別れを悲しむひろこの慟哭は、まだ十分に受け入れることのできない多くの被災者の思いを体現しているようだった。戻りたくても戻れない現実は大きくのしかかる。けれども、高校生は自分たちの体験を拠り所にしながら、一心に再生の願いを舞台上に発露する。

 その願いは決してリアリティのないものではない。カーテンコールで涙ぐむいわきの高校生。この公演が終われば、すぐ夜行バスで福島に戻り、普段の授業を受けるらしい。怒りを鎮めることも、静かに鎮魂することもままならない中、現実においても劇世界においても彼らは日常を取り戻そうと奮起する。生活と隣り合わせの演劇だからこそ、物語は説得力を持った。

 終演後歩いた新長田には鉄人28号が聳えたち、多くの親子連れでにぎわっていた。阪神大震災から16年かけてこの街も復興をした。演劇は即座に人命を救助するようなものではないし、その効果がいつ現れるかは分からない。しかし、10年、20年先の未来へむけて、いわき総合高校の上演はこの先の長い指針となる意義のある作品だった。

(須川渡・すがわわたる/大阪大学大学院文学研究科博士後期課程)

 

2014-07-22
別の演技は、観客と別の関係を結びうるのか|ルネ・ポレシュ作・演出『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』

ルネ・ポレシュ作・演出『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』(9月24日@豊洲公演西側横 野外特設会場)

(C)片岡陽太

(C)片岡陽太

はじめに
 エントランスを通り抜けると、客席の前方と左右はつうつうで、今そこを抜けてきたばかりの光景が開けている。むき出しの埋め立て地には、手前から奥へスクリーン、数台の車、小さな舞台や広告塔らしきセットがまばらに置かれ、その背後には都心のビル群。この虚実の境目が曖昧な映画都市に、観客は隠れるところなく身を置き、同じ空間で都市の論理に曝され行為する人々を追うことになる。従来の鑑賞の枠組みを揺さぶろうという作品の狙いは明らかだ。同様の野心を持つ作品は、すでに現代演劇には溢れかえっているように思われる。一方で、作品への観客の関わり方は、それに伴い多様化しているとは言い難い。むしろごく最近でさえ、他のカルチュラルグッズと同様の一種の消費の形態へと方向付けられてきたのではあるまいか。ならばそもそも私たちは、なぜ劇場へ、祭りへ足を運ぶのだろう。このような疑問をより大きな問題系の中でつきつけてくるのが、本作である。

1) 俳優による俳優の俳優のための演劇 
 まずは導入部に基本の設定を見ておこう。冒頭では前触れもなく、セットの一部である軽自動車とトレーラーが走りだし、上手側からパトカーが出動する。カーチェイスが始まるのかと思いきや、手狭な広場でぐるぐる回るどれがどれを追っているのかは判然としない。次いで登場する女優帽を被った女は、「ここ」はローマの由緒ある映画撮影所で、自分は映画を撮るために来たのだが、誰もいないし、セットや道具やあれやこれやが「ない」とふれて回る。この設定に合点がいったところで、別の女優とおぼしき女が登場して混ぜ返す。「ここ」で行われるのは演劇のはず、なのに回り舞台が「ない」ではないか、と。二人ともないものばかりを論うのはなぜなのか? 映画なのか演劇なのか? うやむやのまま他の俳優も加わり、話題はいずれであれ彼らに共通する関心、つまり「何を演じるか」へなだれ込んでゆく。そこでもまた、これこれの人物をやるには同様の外見上の特徴がないだの、復興劇をやるには歴史的衣装が要るだの難癖をつけ合い、ならばと別の人物や俳優が次々呼び出され・・・という交代劇がひとくさり。この間、車の中からカメラが俳優たちの姿を追いかけ、その様子は字幕と兼用のスクリーン上にライブ中継されるようになっている。

 総合すると『無防備都市』は、様々な役に挑戦する俳優(たまに監督やスタッフ)に扮する出演者たちが、カメラの目と観客の目の間を行き来して、演技とそれをめぐる考察をライブで披露する作品となる。つまり、プロの俳優たちが、自らが当事者である問題について、注釈を交えて実演するという趣向だ。同時にここまでで呑み込めたのは、作中、彼らの演じているもの—人物像、場面設定、アンサンブルにおける役割など—が、めまぐるしく変化するということ。次第にパターンとして認識されてゆくのだが、本作には、演じる者/演じられる役の関係を流動化する契機がこれでもかと埋め込まれている。

 例えば、冒頭のトムとジェリー風追いかけっこは、続けざまに女優と撮影機材との間でも繰り返されている。マイクを掲げて必死についてくる音声係をさんざん振り回しつつ、女優は言い放つ。「マイクはどこよ? ないと声が枯れる!」他愛もない場面のようだが、このような二つ巴、三つ巴の関係は、周到に組まれ随所に盛り込まれている。そうして生じる立場の反転や、場合によると権力関係の転倒は、一貫して作品を滑稽な調子で彩ってくれてもいる。

 俳優たちはまた、一作品の中では類をみないほど演じる役を取り替えるが、それは第一の女優が説明したように、ここが映画の撮影所だからである。この大枠の中で、ロッセリーニの伝説的三部作やドイツの有名なテレビシリーズ『赤い土』などの場面が次々と転用され、さらに個々の現場でも設定や役割が変わってゆく。例えば、とある撮影現場では、決定を下す監督役がいない、必要だということになり、男性の一人がカチンコを持たされるが、いざ撮影が始まると次の台詞を言う役を演じる者が足りないことが判明し、慌ててその役を引き受けさせられたりする。映画の撮影現場らしく、これら頻繁な場面のカットとスタートの間に意味や感情面でのつながりはないが、そのことにより本作は、映画俳優の仕事の要所を切り取り、かつ不連続な事象から物語をねつ造するという、後に批判される歴史の実態を暴露してもいる。

 このような映画の特性は、第二の女優が持ち出してきた演劇との対置によっても際立たせられる。例えば目の前では通しで演じられているにもかかわらず、スクリーン上では断片化する俳優たちの演技は、映画と演劇を、対照的な産業形態、競合するメディアとして印象づけるし、そこには実演モードと注釈モードの切り替えによって明示される、演じられた虚構/演じている現実といった含意も重ねられるだろう。そして、この映画と演劇という枠組みのとり方によっても、俳優たちの行っていることの意味合いは変わってくる。

 以上のように、本作の主題である「演じる」という行為は、不断に切り替えられる場面や枠組みなど、大小複数の設定の中に置かれている。したがって、「ここ」がどこで、「彼/彼女」らが何を演じるのかといったことがしばしば話題にされるものの、それが一つに定まることはない。むしろ俳優たちの演技は、固定した人物の行為や内面に統合されないマルチタスクに分節され、それを希有なやり方で遂行する身体には、設定ごとに異なる緊張関係を結ぶ意味が引き寄せられてゆく。本作を牽引するのは、このような複雑な論理の絡み合う演技のダイナミクスに他ならない。

2)映画都市の現実 〜プレカリアートか自由業か〜  
 上記のような演技を追う中で、浮かび上がってくる問題系に目を向けてみよう。先に触れたように、映画都市では映画俳優たちの演技の、仕事としての側面が切り取られており、併せて「演じる」ということをめぐっては、労働やビジネスの観点から、多くの問題が提出されている。実のところ、高速で吐き出されるテクストには、スペクタクル産業の実態と批判理論を参照する、追い切れないほどの注釈が含まれているのだが、その矛先はおおかた歴史と資本主義へと向けられているようだ。数分に一度は訴えられる「ない」の意味合いはそれぞれ多義的に読めるが、並べてみるとそのことは一目瞭然。カメラ、マイクなどの機材、水、電力、シャワーの湯といったライフライン、そして歴史的風景、歴史的衣装、歴史的身体、歴史的・・・。確かに映画は、行為する者とそれを見る者がいれば成立するとされる演劇とは対極に、必要とする資本も生み出す資本も規模が大きい。かつそれは、勝者の物語としての歴史をねつ造し、さらに既存の歴史から権威を得て物語を強化・再生産する産業とも言える。このように、俳優たちが自分たちの労働環境として提示しているのは、すでにそれぞれ矛盾や欺瞞を孕んだ二つの生産システムが、手を組んで近代に肥大した権力機構だということになる。

 そこで俳優たちは、システムの要求に従って「ただ機能する」にすぎないが、その際執拗に求められるのは、一つには、「ホーキング博士といえば鼻のニキビ」といった類の、あてがわれる人物像と合致する外見上の特徴であり、もう一つは、「歴史的身体」が備えるようなカリスマ的権威や魅力である。このような力がないと訴えるたび、俳優たちは、複製技術の台頭と連動して変質した礼拝価値を呼び出して、自身と自身が従事する映画に商品価値を与えようとしているかのようだ。いずれにせよ、役を選ぶ権利もなく、与えられた役を内面化するいとまもなく、あちこちの現場を渡り歩く俳優にとって、まさに資本は身体だけなのであり、そこで機能しようとすると、身体を個々の設定に従わせて断片化するほかない。つまり、プレカリアートが生産者として主体的に自らの商品価値を上げようとすると、自らの身体を客体化して搾取することになり、そうした果てに彼らが達成するのは、資本によってねつ造される物語に、真正性と権威を粉飾する仕事となる。つまり、機能するほどにそれと知らず非人間的なシステムの増強に貢献するという矛盾に陥るのだ。こう考えてくると、本作で再現を試みられるネオレアリズモのヒューマンドラマなど、レジスタンスもまた、この機構に飲み込まれてしまうという、映画都市における矛盾の最たる例である。終盤で連呼される、「ロッセリーニは、子供たちが命を大事にできるようにこの映画を作ったのよ」は皮肉に響く。

3)プレイとロールプレイあるいはタスクのあいだ
 以上のように、この都市の末端労働者としての俳優を取り巻く状況は苛酷である。一方で、彼らは矛盾を身をもって指し示すにとどまらず、同時並行で、ダブルバインドの状況を生き延びる術のようなものも実践しているように思われる。それは、このスペクタクル産業において機能することを、あらゆる場面で拒否すること、さらに目的主義、完璧主義そのものを無化することによってなされる。

 映画撮影所という枠組みの中で再現される映画が、歴史性やポピュラリティといった権威を帯びたすぐれた商品であることは、すでに述べた。その筆頭である『無防備都市』は、映画史に名を残し、今日テレビドラマにいたるまで支配的となった演技の規範を確立した。さらにそれらに共通するのが、全体主義や戦争、貧困などの支配下にある市民の抵抗という、高貴な主題である。これにより当然として目的化される忠実な再現なるものを、ポレシュの俳優たちは、こぞって未完に終わらせる。そのためには、まず端的に失敗してみせるというやり方がある。例えば、台詞につまってプロンプターの助けを借りてみたり、父親の死というドラマの頂点で吹き出してしまったり。そこだけ見れば、一見名作を茶化したパロディだが、本作においては個々の場面を早々にご破算にする一連のアクションの一つに過ぎない。あるいは、目的を全うするために必要となるものがないことをいち早く見つけ出し、完成が不可能であることを指摘するというやり方もある。こちらはその都度の設定を誰の責でもなく中断する契機となり、同時に完璧主義も無化する有効な戦略となる。というのは、個々の身体的な特徴がなにかしら欠けていると言っては演じる人物像が繰り返し取り替えられる時、その果てにはすべての特徴を満たす身体などあり得ない、つまり規範的な目的設定のほうに無理があることが露わになるからだ。こうして設定の更新が短いスパンで繰り返されると、俳優の演技は開始と同時に次の中断が予期されるような、運動の終点/目的を持たぬ自律性を備えた遊戯の様相を呈する。実際の俳優たちの演技に目をこらしてみると、ドラマ演劇におけるような没入型とは異なり、いついかなる時も中断でき、別の設定を接続することができる距離を保った、ごっこ遊びに近いものに見えてくる。このとき俳優は、うまく機能しようとする主体というよりは自動的な遊戯運動を持続させようとする主体として観察され、ならば消費、評価、読解などの対象となる「見せる」、「表現する」主体とはみなしえない。ここには、客体を生じ自分が主であることを維持しようとする主体のあり方に対し、別の関係を生み出す可能性が見いだされるのではないだろうか。

おわりに
 以上のように、このポスト・ドラマ演劇的なもろもろの手法は、権力機構の内部で機能することを、演劇ならでわの手法で拒否することへと明確に方向づけられている。『無防備映画都市』において、観客に差し出されているのは、欠損のある商品、読解の不可能なテクスト、対象化しえない俳優の存在である。

 したがって鑑賞者は、目の前の俳優たちの翻弄される身体から彼らが指摘する問題をたとえ「読みとった」としても、それを傍観するだけでは終わりとならない。ここに示されたスペクタクル産業の構造を敷衍すると、同様のシステムの一端に、作品や俳優という商品に向き合う自らの役割がまずは自覚されるからだ。それは特に、2000年以降の日本の文化シーンで、選択し消費する主体としての自己実現に方向付けられ、そのことに気づいていない観客には、反省の端緒となるかも知れない。翻って、そこには消費に対する抵抗として奨励されてきた、読解というかたちの観客の能動性に含まれる非対称性の問題も提出されているように思われる。何より、目の前の俳優たちが遊戯者として認識されるのなら、私たちは当事者に対し鋭く区別される傍観者ではない。俳優が興じる遊びのしくみ、ルール、タスクを徐々に手にしてゆくとき、さらに単に読んで理解するだけでなく、また考えるだけでもなく、そこに自分でも実践し得る知恵を見いだしてゆくとき、観客は、観察し、遊びのルールを共有し、見守る共遊戯者、さらにその先へとパースペクティブをたえずシフトさせてゆくのではないだろうか。

古後奈緒子(こご・なおこ/ダンス批評)