vol.22

観劇抄録 2012年1月~7月|メイシアター×sunday『牡丹灯籠』他

 上半期で古典劇26本、現代劇17本、計43本を見た。その中から取り上げるのは次の5作品。

*メイシアター×sunday『牡丹灯籠』(3月9日@吹田市文化会館)
*MONO『少しはみ出て殴られた』(3月10日@ABCホール)
*NODA・MAP『THE BEE』(6月2日@大阪ビジネスパーク円形ホール)
*青年団『月の岬』(6月24日@AI・HALL)
*こまつ座『藪原検校』(7月7日@兵庫県立芸術文化センター)

 歌舞伎座改築の折から、関西でも歌舞伎がよくかかるようになった。めでたい。ただし小劇場をめぐる状況はますます厳しい。上演数も減り、見るべき成果も乏しい。いや、ことは現代劇に限らない。関西歌舞伎はとうの昔に姿を消した。文楽も松竹は手放している。古典現代を問わず、いまの関西演劇はやせ細っている。「関西文化の衰退」は戦後関西を語る際の決まり文句ではあったが、とうとう根っこまで食い潰すことになるのか。
 たしかに企画や運営など問題は山積している。とはいえ権力をかさにきた恫喝は、何も生まない。演劇はそれ自体が「公共的財産」だ。透明性の確保も公的支援も、その「公共性」ゆえにどちらも必要なはず。
 閑話休題。不満はあれど、さすがと恐れ入ったのは、今回は触れられなかったが3月南座で見た『平家女護島』俊寛の中村吉右衛門と『THE BEE』の野田秀樹。『藪原検校』(井上ひさし作、栗山民也演出)は野村萬斎の個人芸とアンサンブルの良さで上出来。土田英生(MONO)の新作は、うまさは感じるものの足踏み状態か。『牡丹灯籠』の企画(ウォーリー木下の脚本・演出)は小ぶりながら、なかなか面白い試みだった。がっかりしたのは『月の岬』(松田正隆作、平田オリザ演出)。初演の緊張感が色褪せた。
 それにしても選んだ5つの舞台のうち、関西系劇団はsundayとMONOのみ。またMONO以外は、いずれも再演か古典がらみ。このかたよりは、何だろう。 

メイシアター×sunday『牡丹灯籠』(3月9日吹田市文化会館

撮影:清水俊洋

撮影:清水俊洋


 意外といっては失礼だが、予想を裏切る出来ばえ。
『牡丹燈籠』といえば、「カランコロン」の下駄の音で有名なお露新三郎の怪談が知られているが、じつはそれは三遊亭円朝の落語『怪談牡丹燈籠』前半の一場面にすぎない。岩波文庫一冊分もある原作の通し上演を見るのは、たしか花組芝居についで2度目だが、歌舞伎でもカットされる忠僕孝助の仇討話を、お露新三郎以上のメインストーリーとして採用して、なおかつ原作を貫く勧善懲悪や因果への疑問までつけくわえるという、よくばった2時間20分の舞台だった。ダイジェスト版にありがちな消化不良を感じさせず、終始軽快なテンポで演出したウォーリー木下の才気にまず感心した。
演技力にばらつきのある役者陣を、すばやい動きでまとめ、とくに前半あきさせない。演技も時代がからず、台詞も口調もぐっとくだけて現代のまま。それがかえって新鮮に聞え、役者も生き生きとしゃべっている。
舞台全面に長短100本以上の竹をぶらさげた美術(野井成正)。ずっと竹はかけっぱなしで、時々進行の邪魔になったが、水の流れの照明が揺れる竹林に照り映えて美しい。また手持ちミニライトが蛍のイメージを伝えて効果的。音楽もまったく日本的でなく、いっそ気持ちよい。
その上で孝助自身が「敵討をいつまで繰り返すのか」と自問自答したり、新三郎の霊が孝助に「見えないものを、勝手に僕らは見てしまうんだ」「因果も自分でこしらえているものではないかな」と語ったり、作者は新たな台詞を付け加えている。ただ因果や敵討への疑問が言葉で説明されはするが、演技やシーンにまで昇華しきれているかは疑問だ。たとえばゆっくりたっぷり演じるべき「お峰殺し」の場面など、かたちばかりで迫力に欠ける。語りで逃げてしまい、演じきる力が足りない。総じて演出のテンポに、演技が頼りすぎ。
役者では赤星マサノリ、や乃えいじが手堅い。若手では野村侑志が口跡もしっかりして、演技にのびがある。

MONO『少しはみ出て殴られた』(3月10日ABCホール

 はじまって5分ほどして「ああ、寓意劇だ」と思った途端、興味が半減した。ひいき劇団なのでこの15年ほどMONOの公演はほとんど見ているが、土田英生は『衛兵たち、西高東低の鼻を嘆く』(2005年)や『地獄でございます』(2007年)など、何本か寓意劇を書いている。どれもピンとこなかった。つまらない訳ではない。けっこう楽しめて、うまい。でも先が読めて、予想を超えない。寓意が象徴にまでいかない。かといって設定された場所や登場する人物に「どうしてもこうでなければ」という切実さも感じられない。だからテーマはとても「正しい」のに、リアルじゃない。
 今回の台本は特に前半が問題。紛争によって刑務所の真ん中に突然国境線が引かれ、囚人たちはその新たに生まれた国境によって次第にいがみ合い、抗争をはじめる。着想は面白いが、事件展開そのものは昨今の世界をみれば、容易に予測できるものではないだろうか。その予想を笑いや風刺をちりばめなぞっていくだけで、驚きがない。後半さらに別の国が生まれ、展開は複雑になるが、たとえば『その鉄塔に男たちはいるという』(1998年)の戦場のコメディアンたちとくらべても、劇としての切実さ、リアルさに欠ける。コメディアンたちも囚人の一人も最後は死ぬことになるが、本作では囚人の死が痛みをもって感じられない。なぜ彼が死ななければならなかったのか。その死はただ唐突で、私にはよく飲み込めなかった。
また笑いの質も気になった。パターン化が進んで、テーマとのからみが弱い。土田自身『-初恋』(1997年)や『京都11区』(2003年)で描いたように、笑いは差別やいじめと結びついて、問題の複雑さや認識の相対化を映す手がかりとなるはずなのに。
役者も与えられる役柄に慣れて、新しい演技を生む意欲に欠けてはいないか。それぞれたしかに個性(ツボ)はもっていて、観客はそのツボを楽しむことはできる。たとえば優柔不断だったり、じじむさかったり、説教くさかったり。しかしそこに手馴れた良さはあっても、個々の役者の新たな一面を発見することはできなかった。客演の中川晴樹と諏訪雅の二人は、互いの微妙な、切ない関係をうまく表現していて楽しめた。

NODA・MAP番外公演 『THE BEE』Japanese Version(6月2日大阪ビジネスパーク円形ホール
原作:筒井康隆『毟りあい』  共同脚本:野田秀樹&コリン・ティーバン
演出:野田秀樹  出演:宮沢りえ、池田成志、近藤良平、野田秀樹

初演の舞台は見ていない。どうしてもこれは見逃せないと京橋OBPにでかけた。噂にたがわぬ出来で、野田秀樹の本領はやはり「小劇場」にあるとあらためて思った。
とにかく舞台づくりの密度の濃さに圧倒された。大型キャンバスのような白紙を幕に使って、そこに人影や蜂の飛ぶさまを映し出す。装置はそれとちゃぶ台のみ(美術・堀尾幸男)。あとは鉛筆やゴム紐といった小道具を使うだけで、いささかの遅滞もなく舞台はずんずんと進行する。この緊張感と錬度の高さはすばらしい。野田の演出家としての力量が、遺憾なく発揮された。
4人の俳優もその要求によく応えた。瞬時に役を切り替えるそのテンポは、最初こそ気負いがみられたが、あとは緩急自在に観客を劇世界に引きずりこんでいく。とくに監禁され殺される母親を演じた宮沢りえの、いまにも壊れそうな透明感は、主人公井戸が加虐性をエスカレートさせる直接の引き金となっていた。これは筒井康隆の原作にも、おそらく初演の秋山菜津子にもない、今回のメンバーならではの特徴ではなかったか。
 ほぼ原作の骨格を引き継ぎながら、ブラック・ユーモアの側面が削られ、代わりに社会性(日本のカイシャ社会や世界に拡がる暴力の連鎖等)が加えられたことは、すでに指摘がある。ただ気になったのは、暴力描写のすさまじさよりも、主人公の暴力への目覚めがどのようにして生まれたかという点だ。そこが原作でも、舞台をみていてもいまひとつピンとこない。何が井戸を暴力に追い込んだのだろう。
 また芝居前に流れる70年代歌謡曲から、ラストの尾藤イサオが歌う「剣の舞」(ハチャトゥリアン)まで、選曲の意図がどうも飲み込めず、違和感を覚えた(音響効果・高都幸男)。もったいない。

青年団『月の岬』(6月24日AI・HALL

松田正隆の『月の岬』は、平田オリザ演出で1997年関西の若手俳優を中心としたプロデュース公演のかたちをとって、京都で上演された。松田にとって戯曲依頼ははじめて、平田もはじめての外部演出だった。この初物尽くしはしかし、めざましい成果をあげた。長崎の離島に暮す一組の姉弟の「愛情」を軸に、生と死、排除と救済、神話と現実といった幾層ものモチーフが織り込まれた濃密な劇世界は高く評価され、第5回読売演劇大賞最優秀作品賞と優秀演出家賞を得た。私もこの戯曲の典拠や作品構造について考えたことがある(『20世紀の戯曲Ⅲ』社会評論社など)。2000年の再演を経て、今回は青年団公演としての再々演となった。平田は公演しおりで「客演の内田淳子さん以外は、すべて青年団員です。勝手知ったるメンバーで、再度、別の角度から戯曲と向き合う時間を作っていきました。『月の岬』が日本演劇にとって新しい古典となるように、さらなる深みへ進んでいきたい」と述べている。
だが舞台成果は、決してかんばしいものではなかった。なぜか。青年団の演技と戯曲の言葉がズレていたからだ。
青年団の若手の演技には、島の周りに拡がる海や空といった自然のもつ「闇」、そして人の心の「闇」に対する怖れが感じられない。だから台詞の奥行がつかめぬまま、緊迫感がなく平板な、でもその分日常的にリアルな世界がつくられていく。これでは逆に、戯曲の言葉のほうが思わせぶりな、「文学的」なものに感じられてしまい、台詞の含みが生きてこない。けっきょく演技と台詞が擦り合わぬまま、劇が進行してしまった。
 姉にまとわりつく昔の恋人(大塚洋)は、配役に問題がある。柄がちがう。あれでは気のいい、生活に疲れ果てたおじさんでしかない。もっと臆病で、でも不気味で、どこかに激情を抱え持った男でなければ、姉とまちがいは起こさないし、暴発もしないだろう。
 姉(内田淳子)の所作の軽やかさ、そしてうつむき加減の沈黙のすがたがとても生き生きとして見えた。この情感を十分に湛えた沈黙があってはじめて、『月の岬』は成立するのではないか。
 初演が瑞々しさと死の影にあふれた舞台だっただけに、今回はなんとも物足りない。時間の「非情」な移り変わりを象徴する風鈴の音まで濁って聞こえたのは、いかにも残念だった。

こまつ座世田谷パブリックシアター『藪原検校』『藪原検校』(7月7日兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール)

 1973年初演(井上ひさし作、木村光一演出)の悪党芝居。実際に見たのは、2007年の蜷川幸雄演出がはじめて。読んで想像していたより妙に重苦しく、はずまない舞台だった。その原因は、おそらく蜷川の演出スタイルと主人公杉の市(のちの藪原検校)の古田新太にあった。生まれながらに差別を受け、怨念をばねに殺戮を重ねてのし上がった悪漢が、最後はスケープゴートとして無残な死を迎える。そんなグロテスクカーニバルの構図をつよく打ち出した蜷川演出は、和製『三文オペラ』を狙った全20場のこの戯曲の一部としか重ならない。また醸し出す悪の匂いはぴったりながら、古田の芸質は盲目の芸能者杉の市を演じるにはやや無理があった。今回は役者野村萬斎の軽みと芸、そして作品の深い読みに支えられた緻密な栗山民也の演出と絶妙なアンサンブルによって、面目を一新していた。
 なんといっても特筆すべきはやはり野村萬斎の個人芸だろう。「奥浄瑠璃のパロディ」としての早物語を、扇拍子とギターに載せて、謡あり語りありはては五木ひろしの物まねまでそろえて延々10分間ひとりで演じるなどという芸当は、彼を措いてほかにはちょっと思いつかない。第5場がこんなにもわかりやすく楽しめると知っただけでも、この舞台は十分見るかいがあった。さらに狂言でも、悲劇でもない主人公の悪の成長譚を、萬斎は偽悪的にも、道化的にもならず、さらりと微妙な間合いで演じてみせた。この軽みは、じつは新劇人野村萬斎からはあまり感じたことがなかった。『ベッジ・パードン』(三谷幸喜、2011年)の漱石さえどこか硬かっただけに、今回の思い切りの良さは印象に残った。
 語り手役盲太夫を演じた浅野和之の端正かつ軽妙な語り口も見事。何役もこなすたかお鷹の憎めない飄逸さ、意外なほど落ち着き払った小日向文世の塙保己市も忘れられない。赤と黒を際立たせながら、自在に場面を転換させる美術の松井るみ、ギターに津軽三味線の音色さえ感じさせる千葉伸彦の演奏などスタッフ陣も充実している。それらを栗山民也の演出が丁寧に束ねて、舞台全体のバランスを崩さない。
 欲をいえば、藪原検校へ成り上がった萬斎には悪のふてぶてしさがほしい。そして集団演技のシーンにもう少しはじける勢いがあればとも思う。いかんせん平均年齢が高く、夜の部の後半は少々息切れしていた。

出口逸平(でぐち・いつへい/大阪芸術大学・日本演劇)

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Posted on 2014-09-29 | Posted in vol.22 | No Comments »

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