vol.22

爪先立つ現在|淡水「魚企画 VOL.4」

淡水「魚企画 VOL.4」(2012年6月16,17日カフェ&ギャラリー CAN TUTKU
「提供:淡水」1_small
 コンテンポラリーであるということは、素手で対価なく与えられるものではなく、そうあろうとする強い意志が伴わなければならない。しかもそうであるというお墨付きはない。ということは、それは主観的なことなのですね、ということで収められてしまうのか。
淡水というあっさりした名を持つダンスパフォーマンスカンパニーから、なぜ現在性を感じられるのか。それは何より、転倒寸前の爪先立ちにおいてである。それは概ね(当然とはいえ)、速度ののちの突然の停止によってもたらされる。
目新しいものではないだろう。しかし、その停止がメタファでなく、直接的な出来事の共有として経験されるのは、その空間が共有可能な場として成立しているからで、それはなぜか。
もちろん会場の特殊性をうまく使ったこともある。ここは淡水にとって初めての会場だったが、通常アクティングエリアとして使われる奥の空間、そこと入口とを結ぶ細い通路、入口周辺の椅子、入口のシャッター、外の公道のすべてを使うことで、観客もそのすべてを見届けようと動くことになったし、同時並行的に複数の場所で行為が行われたことで、観客は何を観るかを選ばなければならなくなった。
選ぶことで、没入が生じる。それは、一方を観ていないという焦燥を伴っている。様々な意味で、観客を前のめりにさせる仕掛けが整っている。結果論ではあろうが、それがこの公演の一つの前提だ。
では、菊池をはじめとするダンサー自身は、どのような動きを獲得していると言えるのだろうか。
彼らの多くは特定のジャンルのダンスのテクニックを集中的に習得した経験はないようだが、中で菊池のソロには、上質なヒップホップがドライヴする時のグルーヴを感じさせるようなことがある。特にヒップホップを熱心に学んだわけではない菊池が、なぜそんなヒップホップの真髄めいたものをきらめかせるのだろう。
ヒップホップは、そのファッションスタイルだけではなく、動きの流麗さと佶屈さの落差の激しさによって、時代の空気をつかみ取っているのではないかと思う。その落差を自分の身体に流し込み、溢れさせることによって、ある種の全能感が生まれることもあれば、収縮感にとらわれることにもなるのではないかと。
おそらく菊池は、そして淡水の面々は、ヒップホップを通じることなく、そのような落差が自分たちのものであることに、気づくことができているのではないか。
それは、マクロにもミクロにも、菊池やメンバー、そして彼らの世代、今を生きるぼくたちが抱えている何ものかと、深く鋭く響き合う。
メンバーの重里実穂も井上大輔も、ソロや別のユニットで様々な切迫を……緊張や昏迷やすれ違いや孤立を……飛散させている。頼ったり逃げ込んだりする既存のテクニックを持たない、保証のなさが、彼らの爪先立ちを際立たせる。
ダンスでも何でも、現在の表現であろうとするものは、何ものにも保証されていない孤立した不安を背負っている。それは徐々に、所謂うまくいけば、認められ評価され、権威となって安定し、初期の不安定な輝きを失いかける。その時に、再び地点ゼロに戻れる勇気があるかどうかが、常にフロントにあり続けるかどうかを分けるだろう。
淡水を観終えた後には、完結しようとする一つの世界に立ち会えたことを実感することはできるのだが、爽快感や満足感と言ってしまうことには、多少の違和感がある。見たくないものを突きつけられているというのとも少し違うが、現在の焦燥や切迫や昏迷のありようについて、やんぬるかなとでも言うような嘆息を漏らさざるを得ないような、そんな苦い共有感が残る。
あえてコンテンポラリーであることを自らに課すということを初めに述べたが、むしろ、現在でしかあり得ず、過去に依拠するものがないというつらさ、エッジに踏みとどまると言うよりは、そんなぎりぎりの場所しか残っていない、というのが本当のところかもしれない。つらいな。

上念省三(じょうねん・しょうぞう/ダンス批評)

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Posted on 2014-09-29 | Posted in vol.22 | No Comments »

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