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虚構/嘘という「現実」―二階堂瞳子とバナナ学園純情乙女組へ―

虚構/嘘という「現実」―二階堂瞳子とバナナ学園純情乙女組へ―
バナナ学園純情乙女組『翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)』(5月24日王子小劇場

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王子小劇場で2012年5月24~27日まで上演された、バナナ学園純情乙女組『翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)』。この作品が公演終了後の28日、ツイッターを通じて問題視され、ひと騒動になった。問題そのものは6月2日、劇団のHPに謝罪文が掲載されたことで、表面的には沈静化に至った。しかし、当公演を24日の21時に観た者として、この騒動が一体何を示しているのかを考える必要があると感じた。そこで、1.一連の経緯、2.騒動に対する私見、3.本作とバナナ学園純情乙女組評の構成で、以下に記す。
その前にひとつ告白しておく。問題視されたシーンはいつのどの公演で起きたのかは明らかになってはいない。後半日程には演出自体がなくなったとも聞く。それを踏まえた上で、私にはそれと思しきものを目撃した記憶がある。私が座ったのは上手通路側の一番後ろで、該当シーンとおぼしきものは下手寄り最前列で行われていたように思う。類推でしか語れないのは、その最中にいくつかのパフォーマンスが同時に行われていたため。そのことで注意が散漫になり、件の場面も単にひとつの舞台構成要素として片付けてしまった。とはいえ、問題視された公演が私の観劇日に行われたのだとすれば、危険を抱かなかった点について反省せねばならない。
誰が加害者で被害者かという問題も当然のことながら、それ以上に虚構という名の嘘に安住する、現実感覚を欠いた心性が問われなければならない。虚構を成り立たせるのは現実原則であり、容易にそれへと変転することを捨象すれば、様々な問題を引き起こす。たとえ、一切の行為が創り手側による作為的なもの、すなわちパフォーマー同士による〈ヤラセ〉だったとしても、観客はひっかかりを覚える程度には常にアンテナを張っておかなければならないのではないか。観客を危険に巻き込まなければ何をしても良いということで、パフォーマー同士による作為があったとして、もしその一方が大きな被害を負うなどのアクシデントが起こればどうなるか。たちまち劇の虚構は崩れ、現実が貌をもたげるだろう。我々は、虚構とはいかに脆いものなのかを知り、その自覚を持たなければならない。でなければ、この集団が引き起こしたような問題は、今後も繰り返されることになる。そのことは後に詳述するが、まずは問題の経過を追ってみよう。
事の発端は、本作品を観劇した女性客が舞台に上げられ、男性俳優から不本意な扱いを受けたことにある。精神的苦痛を受けた女性客は知人に相談。一件を看過できないと判断したその知人が、本人に同意を得た上で事実をツイッターに公表した。内容はツイッター上でまたたく間に多くの人に知られるところとなり、波紋を広げた。ある者は、衆人環視での辱め、それも性に関わるものである点で犯罪と、バナナ学園側を強く否定。またある者は、非日常空間である劇場はそもそも安全地帯ではないという、劇空間の特権性を主張して集団側を擁護した。中には、観客は身の危険を負うことも含み込んだ上で劇場へ足を運ぶべきであり、自主的に参加した以上、あらかじめ一切を許容したことになるという意見も見られた。
このように、大きな反応を呼んだ同28日、王子小劇場代表・玉山悟氏は劇場のブログにて、「あるお客様に対して過剰な演出による不快感を与えたとみられることに関し団体担当者と協議をしました。」と記載。続けて、「現在団体は状況の確認がとれ次第謝罪する方向で当事者の方と連絡をとる努力をしているとのことです。」と記した。一方バナナ学園側は31日、「観客の方のお気持ちを深く損なわせてしまった件に関しまして当該本人との連絡」を取ったことを劇団HPに報告。そして6月2日、「ご本人と5月31日時点でお会いし、事の真相をご説明した上でご不快な想いをさせてしまった事に対してお詫び」し、「この度の一件を劇団として真摯に向き合うべき課題として受け止め」るとHPに記した。この顛末からは少なくとも、劇団側が非を認めたことは了解されるが、事実内容についてはデリケートな問題を含んでいるため、今後も明らかになる可能性は低い。その上、こと記録に残り難いのが舞台芸術である。この件はツイッターで一人歩きし、感情的な意見が多数、投稿された。もちろん、建設的かつ客観性を担保しようと努めた意見にも出くわしたが、それも多くの罵詈雑言に埋もれがちになった。6月2日に劇団が謝罪報告をするまで、演劇はネット言説に晒されたのである。
その一か月後の7月2日、フェスティバル/トーキョー12(F/T12)の「公募プログラム」枠への「参加取消し」が、F/TのHP上で発表された。フェスティバル/トーキョー実行委員会実行委員長・市村作知雄名義の文面には、「『バナナ学園純情乙女組』主催公演中に劇団が起こした事態について、劇団からの報告を受け、検討を重ねて参りました。今回の事態はF/T実行委員会が参加団体に求める一定の基準に反するものと判断し、同劇団の公募プログラムへの参加の取消しを決定いたしました。」と記されている。F/Tは決して少なくない都税が投入されるフェスティバルである。公序良俗に照らし合わせた結果、相応しくないとの判断がなされたのだろう。とはいえ、バナナ学園は昨年のF/T11「公募プログラム」には参加している。F/T主催者側には是非、一連の経緯をどのように考えて「参加取消し」を決定したのか、去年と今年の落差を生んだ「一定の基準」の根拠を明らかにしてもらいたい。下した結果の是非を問うことよりも重要なのは、F/T側の芸術観を発信した上で公共的な議論の場を湧出することである。それも、都税で運営される催しが果たす役割の一つであろう。
 
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 ここからは、騒動についての私の意見を述べる。結論は、バナナ学園側の謝罪を支持するというものだ。というよりも支持せざるを得ない。意図せず舞台に上げられ、直接体に触れられたことで精神的に屈辱を受けた―そのように相手が感じたとすれば、行為者の意図は別のところにあってもアウトであろう。セクハラやパワハラ、痴漢と同じである。性的、精神的な問題は、権力者から被権力者へ行われることが往々にしてある以上、立場の弱い側の意見が重用される。演劇的/芸術的な理屈付けをして擁護すればするほど、「社会通念」との乖離が深まり、演劇を貶めることにしかならない。事実、劇団側が対応し非を認めた。当事者同士による加害/被害関係が成立した限り、劇団に残された道は円満解決に向けた誠実な対応しかない。それは6月の報告で前向きに進んでいることだろう。
我々にできることは、この件から演劇の問題を取り出すことである。いくつか考えられる問題としては、舞台芸術における猥褻行為とは何か、観客を巻き込むパフォーマンスとは何か、劇場とはどういった場所なのか、そして虚構と現実とは何か、などがある。私としては、最終的には虚実を巡る問題へと収斂するのではないかと考える。すなわち、虚構もまた「現実」であるということである。虚構の劇空間を創出すべく行われる一切の表現は、それが実際に舞台上で生身の人間、あるいは装置などが存在する限り、「本当」であるという当たり前の事実である。したがって、観客を巻き込むパフォーマンスも、それを担う側がいくら嘘/虚構だと主張したところで、本当である限り、意図せぬ受容をされる可能性は大いにあり得る。ただし、その線引き、今回の問題で言えばセクシャリティに関わる境界線は、必ずしも一般化して規定できるものではない。劇団側も記しているように、「多様な価値観が混在する観客」がいるからだ。したがって、加害/被害の権力構造を生み出す劇場は、その限りで「社会通念」が十分適用される公の場所であり、決して治外法権が認められた「何でもあり」の非日常空間ではない。虚構には、嘘を成り立たせる「現実」が作用する以上、すぐさまその皮がはがされてしまう脆いものなのである。このような、ともすれば忘れがちな当然の原理を、今回の一件は明らかにしたのではないだろうか。私を含め、舞台空間を共有した者が現実原則という装置をはずして客席に座っていたことにより、劇場から出れば奇異に受け止められる出来事が、その場では気付けなかった。つまり、物理的に閉ざされた場所で醸成された、現実感覚なき虚構性が社会通念を忘却させ、観客が件のシーンを見過ごすという集団的な暴力を生んでしまったのである。
そのことは深く噛みしめつつも、逆にいえば、虚構という現実が、劇場の外のそれと地続きであり相互貫入的であるからこそ、両者の「現実」は激しく対峙することが可能になることも強調したい。すなわち、〈現実へ容易に転化する虚構〉と、近々では3.11以後に顕著となった感覚、〈虚構とすら思える現実〉との格闘である。その格闘を通して、我々は新たな「現実」の捉え方を得ることができる。これは紛れもなく演劇が持つ力である。しかし、そういった緊張感を生み出そうとするなら、やはり虚構の脆さと危険性を、我々は自覚しておく必要がある。それを踏まえて、舞台と観客との対等な関係を維持し、「間」で交わされる豊かな想像力を生み出すにはどうすれば良いのか、共通コードを探るべきである。もちろん、それは創り手だけでは達成できない。また、支配/被支配は観客から創り手へ及ぶこともあり得る。そういう意味では、観客も豊かな「間」を創るべく積極的に参与する行為者であるべきだろう。
そのことについて考えた時、バナナ学園擁護の意見の中には、創り手と観客とが共犯関係を取り結び、荒々しく官権力と格闘した60年代小劇場演劇を持ち出すものがあった。確かに、かつての創り手と観客は、共通認識を持った同志的関係であったかもしれない。しかし、スキャンダルやハプニングという事象だけで今回のバナナ学園の件と結びつけ、「演劇とはそういうもの」と擁護する意見には同意しかねる。時代が違うが故、60年代に孕まれた思想と現代とは隔絶しているからだ。演劇革命世代のスキャンダルを伴った上演は、国家権力に代表される、穿つべき存在に向けて行われた側面が多々あり、観客はそこに加担するという意味で同志たりえた。しかし現在は、そういった存在を敵として措定することが大きな意味をなさず、加えて方々へと縮小・分散している。その一端を示すのが、企業活動をはじめとするコンプライアンス(法令順守)を求める社会状況だ。相互監視・自己規制が網の目のように張り巡らされている社会では、本当の敵はどこにあるかが分からない。これが「社会通念」となった時代では、スキャンダルの内実はかつてと異なってくるはずだ。この状況が所与のものとなった社会をどう捉えるかは、別途考えるべき問題を孕んでいる。それでも、この時代における創り手と観客との関係を探るためには、まずは時代性を把握するべく、一旦受容することが重要だろう。それらを無視し、スキャンダルという事象の共通点だけで過去を持ち出せば、演劇革命から40数年の時を経て、〈オタク的〉と称されるほどには一般化(?)した小劇場演劇の歩みを後景に追いやることになる。安易に過去に依拠することは、演劇の本質から目を背けることにしかならないばかりか、演劇プロパーによる、もうひとつの暴力につながりかねない。

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最後に、バナナ学園純情乙女組による本作について、これまで観た作品も含めて触れてみたい。今回の事態とは別の観点から、すなわち作品自体を俯瞰してみても、創り手と観客との豊かな関係が生まれにくいものであったと感じる。
この集団は、「おはぎライブ」と呼ばれる公演形態で人気が上昇した。そこでは、大音響でアニメやゲームなどのサブカルチャーに属する音楽と映像が止めどなく流れ、それに合わせて数十人の俳優たちが歌い踊り、もはや聞き取れず音となった台詞をがなり立てる。同時に、バケツや口に含んだ水を観客に浴びせかける、昆布やコンドームを投げつける、観客内へ俳優が乱入して観客に語りかけ、膝の上に座るといったパフォーマンスが展開される。こういった趣向であるから、最前列及び俳優が行き来する通路側の客席は自然、最も「被害」を受けてしまう。
このカオティックでかつポップな狂騒は、少なからず「演劇」外の人々にも支持されていることは、フェスティバル/トーキョー11で上演された『バナ学バトル★☆熱血スポ魂秋の大運動会!!!!!』(2011年10月、シアターグリーン BIG TREE THEATER)にて了解された。
私の隣に座っていた観客が、劇中で歌い・踊られるオリジナルのテーマ曲に合わせ、共にパフォーマンスを展開したからである。彼にとっては、アイドルイベントへ参加することと同様に、バナナ学園のライブを捉えていたのだろう。この光景から、AKB48のキャッチフレーズ、“会いに行けるアイドル”を連想させられたが、演劇とはそもそもそのような俳優と観客との出会いを仕掛けるものではなかったか。そう考えると、バナナ学園は演劇の大衆的・芸能的な本分のひとつを示す集団であると考えられる。だが、それだけでしかないなら、好きな俳優を見に行くファン心理と変わらないばかりか、狂騒的な空間や空気への無抵抗な没入を生んでしまう。
私はそれとは異なる位相で、表現することの意志を創り手に感じていた。無思想な作風を支える熱度の出所がそれである。この集団の舞台に初めて触れたのは、『バナナ学園★王子大大大大大作戦』(2011年5月、王子小劇場)。そこでは自衛隊入隊を扇動する横断幕をはじめとし、右派のモチーフが登場した。続く芸劇eyes番外編「20年安泰。」内の『バナ学eyes★芸劇大大大大大作戦!!!!』(2011年6月、水天宮ピット大スタジオ)では、学生運動を想起させる色とりどりのヘルメットを被った俳優が登場し、左派色が押し出されていた。つとに言われるように、二階堂瞳子の演出は体育会系、軍隊的統制がとられており、一見めちゃくちゃに見える俳優の動きもきちんと演出がなされているという。そこに引きつけて考えれば、右派・左派のモチーフは、規律的な集団行為を演出するために持ち出された道具ということになる。にもかかわらず、舞台からは圧倒的なエモーションを感じさせる。この集団の、それら種々の要素を舞台に上げるために傾注されるエネルギーの出所は一体どこから来るのか。そこが気になっていた。参考になるのが、劇評サイト『wonderland』でバナナ学園の問題に触れた水牛健太郎の論考である。水牛は、BATIK主宰・黒田育世がかつてこの集団のパンフレットに寄せた文に触れつつ、「コミュニケーションへの恐れと、だからこそ、いっそう、コミュニケーションを求める、燃えるような気持ち。乱暴狼藉と裏腹な、慎ましいパフォーマーたちの素顔」が垣間見えると記した(6月6日掲載「いわゆるバナナ事件について」)。
バナナ学園の表現する根拠が上記のものだとすれば、本作はそこから逸れたものであったと言えよう。ドラマトゥルクに青年団の制作・野村政之が加わったことで、チラシに記されている通り、ずいぶん「演劇」になっていた。シェイクスピアの四大悲劇の登場人物が入り乱れ、血で血を洗う抗争の果てに全員が死ぬという「あらすじ」があり、所々、ピンスポットが当たった俳優の一人語りも挿入される。さらに、チェーホフ『かもめ』のマーシャが現れ、「生きていかなければねぇ」と台詞を聞かせるシーンもある。確かに、部分的な台詞以外はほとんど聞き取れないため、「あらすじ」はあってないようなものである。しかし、原典をある程度知っている者にとっては、アクセスしやすい大枠が与えられたことにはなる。つまり、作品として途端に理解しやすいものとなった。そのことで、「演劇」をするという目的はある程度達成されたかもしれないが、「おはぎライブ」の形式で行う必要があったのだろうか。肝心の俳優のパフォーマンスは、シェイクスピア劇から抽出した、激しい恋愛や権力欲を巡る闘争を通し、破滅へと疾走するエネルギーを発露させてはいた。しかし所与の物語にそれらが供与されているため、俳優たちの生の根拠が晒されるまでには至らず、舞台内で完結している。結果、俳優たちの行為は、死=終わりに向かって狂騒するという「あらすじ」をなぞるだけになっていた。むしろ内実が伴わない熱狂は、死ぬまでの間にバカ騒ぎをするという、自分たちの現状の肯定のようにすら映った。ここからは、「コミュニケーションを求める、燃えるような気持ち」は感じられなかったのである。3.11以後、若手集団の作品には、生の称賛が散見される傾向にある。とりわけ倫理や道徳が取り上げられる作品は、生の根源に降り立つように見えてその実、自己承認の口実なのでは、と思わされる節がある。劇場に丹念な養生を施した上で汚し、大音量の音楽を流して聞き取れない台詞をがなりたるバナナ学園の本作の思想が、それらと変わりがなかった点は残念に思う。
そういう意味で、単なる狂騒を目指しているのではなく、もう一段階、未成の何かが込められていると感じさせたこれまでの作品と比すると、一歩も二歩も後退している。男女が糸電話で会話する「つながり」の希求や、これまでの激しい流れを裁ち切るように石川さゆり『天城越え』や西田佐知子『アカシアの雨がやむとき』といった昭和歌謡をカットインさせ(本作では美空ひばり『川の流れのように』)、しっとりさせる場面を作るなど、定番のガジェットと化した要素が繰り返されているのも気になる。オタク的感性を持ち合わせた者を魅了してきたバナナ学園は、本作で「演劇」を試みることで、これまで「おはぎライブ」に乗りきれなかった観客に対し、ある程度の間口の広さを提供したかもしれない。だがそれは、ファン心理の醸成、あるいは作品への没入を促すことにしかならず、結局は狭い型に観客とともに閉じ込もることを意味してしまう。
作品創作に対する緩んだ姿勢が今回の一件を生み出したのか、それとも出来事が起こったからこそ作品と集団にミソが付く結果となったのか。どちらに騒動の原因があるのかは、割り切って判断できるものではなく、両義性を孕んでいる。とはいえ、劇空間内で生まれた「事件」の総体が演劇であるとすれば、今作は観客侵犯方法・作品内容共に、安易さが目立ったと言わねばなるまい。私がいまだ掴みかねているエネルギーの出所、いわば表現することの根本思想を今後も本気で追求するのだとしたら、別に「おはぎライブ」の形式にこだわらなくてもできるはずだ。今後の創作において、必然的につきまとう色眼鏡を避けるためにも、新たな方法を探っても良いのではないか、そのように私は考える。
ここまで書き進めた時点で、また事態は大きく動いた。F/T公演の前に、こまばアゴラ劇場が企画するサマーフェスティバル〈汎-PAN-2012〉で公演予定だった『バナ学全学連の逆襲伝2012(仮仮仮)』(9月5~10日)も公演中止、同時にバナナ学園純情乙女組の解散が発表されたのだ。こまばアゴラ劇場の支配人・平田オリザは7月14日、劇団側と「どのようにすればお客様の安全を確保した上で公演を継続できるかを、お互い真摯に話し合っ」た結果、「劇場としても苦渋」の上演中止を決断したと劇場HPに記した。また、騒動以後、公式コメントを控えていた二階堂瞳子も同日、劇団HPにて「今までバナナ学園純情乙女組をご観劇、応援してくださった全ての皆様へ」と題した文書を発表した。そこには、この度の事態が「一人の俳優の暴走であった」としつつも、「その行為があった時点で歯止めをかけることなく見逃してしまった」ことから、「全責任の所在は、主宰である私にあります」と総括している。そして、「バナナ学園純情乙女組は、次回の公演をもって解散をします」と続けた。公演時期や場所は未定でまだ白紙の状態であること、それ故、「もしかしたら、公演を行うことができないかもしれない」とも付け加えた。
 ここから先は、本論での範囲を超えているため、記述は避ける。ただ、公演を行えば私は観に行くことだけは記して、筆を擱く。

藤原央登(ふじわら・ひさと/劇評ブログ『現在形の批評』[http://plaza.rakuten.co.jp/playplace83/]主宰・[第三次]『シアターアーツ』編集部)

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Posted on 2014-09-29 | Posted in vol.22 | No Comments »

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