vol.22

見るためのタスク|「We dance 京都 2012」相模友士郎『先制のイメージ』


「We dance 京都 2012」 相模友士郎『先制のイメージ』(2月4日、元・立誠小学校 職員室)

提供:「We dance 京都2012」実行委員会

提供:「We dance 京都2012」実行委員会


はじめに

 私たちがダンスに向けるまなざしは自由ではない。近い例だと、多様な表現の溜まり場であるコンテンポラリー・ダンスにおいてさえ、数年来、誰もが手にする基本的権利であるかのように奨励された「面白い/つまらない」という価値判断が、コミュニティ外部から観客を呼び込む方便として大失敗した一方で、内部においてはダンスを見る眼をも苛むまでになった。経験上、この私的断定からは会話ははずむより終わらせられることが多く、自分と同じ嗜好の人間を選別する篩(ふるい)として用いられる場合さえある。なにより困ったことにその無邪気な濫用は、「我選ぶ、ゆえに我あり」といった、目下方向転換を迫られている主体のありように訴えるショウケースに、他の商品と同じ感覚で手を伸ばせるようにダンスを陳列する統一基準としても作用した。そこでは反スペクタクルの伝統とつながりを保つコンテンポラリー・ダンスは、商品価値を至上のものとしてシェアを競うスペクタクルや、市場の「ニッチ」に居場所を求める個性的・実験的作品と並列される。道理でダンスの担い手の生活はいつまでも立たないし、創作を鍛える場とモビリティ、その知や技術を社会の財産として守れるかも危うくなってきた。同様に「君の見たいように見、感じるところに従っていい」というメッセージも反復されるほどに、まなざしを覆う慣習を隠蔽し、新たな自己規制ともなるだろう。注意を促したいのは、一元的な価値観に均された日常のものの感じ方、見方を超えたところへ私たちを連れ出そうとし、他のあり方を垣間見せようとする野心的なダンスとの対話を、これら一見デモクラティックな視点が阻害する側面を持つということだ。人の知性に対する信頼に支えられ探求心を駆動力に大胆に跳ぶ作品と、私たちは高確率で出会い損ねるような歴史的状況にある。

 『先制のイメージ』(演出家:相模友士郎、ダンサー:野田まどか)は、踊る身体を見るに先立ち私たちが抱くまなざしの構えを、引き出し通過させてゆくドラマツルギーを持つ。見所は、それらが積み重なってゆく過程、あるいはまとめて取り去られた瞬間、私たちが何を見るのかというところにある。先の危機感を持つ筆者にとっては、その途上で、視覚の枠組み・方向づけが、一つ一つ目から引き剥がされ枚挙されていったことも興味深い。それにより私たちは、どのような眼鏡をかけてダンスを見ているのか、各々吟味できるようになるからだ。その意味において、本作はメタ・ダンスと呼ぶに値する。
 幸いその眼鏡はテクストを手がかりにある程度再現することができる。そこからうかがい知れる作品の骨組みはしつこい咀嚼に堪える上、過去や未来の別の作品とも呼応するだろう。現時点での鑑賞の概要を記録しつつ、本作の批評性を取り出すことを以下に試みたい。

舞台の上の三つ組みと第三の視覚

初めに登場するものたちの相関関係を見ておこう。公の情報にもとづけばこの作品は、ダンサー野田まどかのソロ作品と受け止められる。だが実際の舞台上には、彼女のカウンターパートが二つ登場し、それにより三組の相補的な関係が成立している。彼女と出演時間を二分する一個のコカ・コーラの空き缶と、二者に相対する作家の相模である。
 缶は、冒頭でいかにも位置が肝心ですという素振りで舞台中央にディスプレイされ、途中で同じ位置でダンサーに取り替えられることで、前半と後半の対称性を明らかにする。さらにダンサーが人形遣いになる最終局面では、人形に見立てられそのパートナーをつとめもする。関係としては(たぶん)対等なこの二つに対し、舞台上に置いた音響卓を拠点に逐一をコントロールして見せる演出家の相模は、一見、主の関係にある。作家の言葉と音楽を駆使し、従順な二つの対象の在り方と見え方を決めてゆくからだ。一方で、こうして明示されている現場の力関係は、あくまでも相互に協力しあって成立している。詰まるところ演出家も缶も、ダンサーから物理的パフォーマンスを引き出し、それに虚のイメージを被せることに従事しているのだから。先取りして言えば、この舞台上の三者は密に組んでより重要な役割を、彼らのパフォーマンスとイメージの間を行き来する観客に与えている。『先制のイメージ』は、私たちの見るという行為を通して視覚(vision)を探求する道程である。

視線の(re)flectionを引き起こす術

 本作の主眼を視覚の形成プロセスにみる理由は、演出家の言葉が見るという行為に段階的な設定変更を迫ってゆき、それによりパフォーマーの見え方がどんどん変わってゆくからだ。とてもダンスらしい作品である。ただこの変容は、踊る主体からはまず出てこないだろうと思われるような、ユニークな手法に拠っている。その特徴は、対象へ迫るためではなく、対象との間に距離をうがつ言葉の遣い方に表れている。心理的な作用を計算したその振幅の制御は、演劇よりも音楽に近い。
 例えば冒頭で演出家は、かつて入っていたであろうが今目の前にはない缶の中身について観客に思い浮かべさせた上で、この清涼飲料水に関する誰でもアクセスできるテクストを長々と読み聞かせていった。実はこの間私たちは、言ってみればゴミ同然の飲みガラを、欲求、読解、鑑賞、消費etc…の対象として眺めさせられていったのだが、まだオブジェとイメージの乖離には気づかない。それどころかコーラの缶を前にコーラの情報を聞くなどそのままではないか、と暇にまかせてコーラ像をあれこれ肥大させてゆきもするだろう。ところが言葉に従い物に積極的に意味を読み込んでゆくという劇場でのデフォルトの鑑賞態度を増長しておいた上で、演出家は唐突に視線の対象を交換してこれを揺るがせたのだ。
 その時起こったのはイメージのリセットではなく、視線の四方八方への屈折だ。まず、イメージの投影先あるいはイリュージョンの支持体を失い目の前の対象を見つめれば、音楽ともテクストとも直接のつながりの見いだせない、成り立ちも構成論理も定かでない不思議なムーヴメントが淀みなく行われている。読む構えを手放せない視線は、その背後や手前、過去をさまようだろう。作家が見せようとしてきたのは何だったのか。私は何を見ようとしてきたのか。今目の前にあってイメージの投影を拒むものはなにか。にもかかわらず目が離せないのはなぜか。このように、ダンスとは相容れない視覚の方向づけを備えるオブジェを同じ物理的設定の中で結びつけたことにより、劇場という制度空間の中でダンスを見るという慣習の内にあってはあまり意識されない問いが浮かび上がってくる。それは、類としてのダンスをめぐるあれやこれやではなく、鑑賞者である自らをも含むこの具体的な関係の中でダンスを”見る”ことをめぐるものであり、その中からハビットや制度空間への気づきや、自らの視覚を観察するような俯瞰の視点さえ生み出されるかも知れない。
 一方、ほかならぬコカ・コーラの容器は、外見上の類似(ただし缶ではなく瓶とだが)をほのめかすテクストの一節を機に、ダンスもまた同様に視線の客体、そしてイメージの投影面となる「ボディ」を持つことを思い出させる。つまり前半でこの世界最強の商品に次々呼び出されたであろうイメージ群は、踊る女性に投影される可能性もないわけではないということ。うがった見方をすれば、体験するものが見られるものとなり、資本主義と結びつき、グローバルに世界を駆け巡る物語や記号性や付加価値を獲得し・・・といった過程には、舞台上で動く魅力的な身体が今日のようなかたちで受容されるに至る歴史的な過程で、先人達が獲得しては克服してきたダンスのあり方との符合を読み込めなくもない。あるいは歴史を呼び出さずとも、同じ空間にいる生身の人間がモノと交換可能であり、オブジェのように一方的に眺められもすると気づくだけで、後半への助走は十分だ。その違和感と延々続いた静止に対する解消となるムーヴメントに自ずと焦点が移れば、”踊る女”を近代の芸術として眺める準備ができたことになる。ちょうどモダンダンスのパイオニアたちが、性別や人種や容姿など先天的な属性により余計な読解格子を起動しかねない肉体から、その場で生成する運動へと視線を誘導したように。

意志的に選択して見る主体の限界

 以上のようなやり方で、言葉に分節された意味から知覚へ、イリュージョンから現物へ、そしてボディからムーヴメントへと、鑑賞の焦点が移された。これ以降は演出家がダンサーに指示を与え、ダンサーがそれを汲んで再解釈するといったことを繰り返す中で先のシークエンスが彫琢されてゆき、観客はあたかもオープン・リハーサルに立ち合うかのように来るべきダンスの誕生に目をこらすだろう。ただ、ここで期待される純粋なムーヴメントとの対話は、容易には叶えられない。踊ることと並んでそれを見ることは、言葉に対して遅れた状態に置かれているからだ。とりわけ新たなオブジェに対する意味の宙づり状態の後で演出家の説明に解消を得た観客にとって、ダンサーへの指示はそのまま、このように見よ、という拘束力を持つだろう。演出家はこの反動を利用して引き続き視線を先導し、逆説的だがそうすることで視覚の自律を促してゆく。
 ここで自律という言葉をあえて出したのは、先の転換点で生じた予期にもよるが、ダンサーに対する演出家の言葉に、常にアンビバレントに作用する複数の方向づけが含まれていることによる。例えば最初のリプレイの前には、新しいオブジェが「ダンサーの野田まどかさん」と紹介され、シークエンスが1月16日の起床から稽古場に来るまでの彼女の動作に由来することが明かされる。字義通りにとればダンス以前の日常の所作の再現が、ダンサーという職能を備えた個人に演じられるのをどう見ればよいのだろう? 以降も動きのリプレイに先立ち身体運動の諸相を切り取る対立概念—たとえば言語に即した再現性を強めつつ言語から差異化される流れを持続させるなど—が、交互にあるいは同時に視線の枠組みを揺さぶってゆく。行き着く果てには、通常は切り離すことなど思いもよらず、完璧な一致こそダンスの理想とされてきた、踊る演者と踊られる振付—あるいは過去の野田の動きと目の前で動く野田—が意表を突くやり方で分離された。この大詰めでは、複合的な現象をどの視点で見るかはもはや問題ではなく、演出家が指示するヴァーチャルなムーヴメントとダンサーが展開するリアルなムーヴメントの間で目の焦点は引き裂かれる。さらにその只中、演出家は自らの指示をご破算にする素振りとともに退場する。いよいよさあさあ何が見えますかと試されているように思われる。
 正直に言うと、筆者はそこに至るまでの段階をいくらか踏み間違えた。演出家の指示を、どちらにも見えうるがどちらに焦点をあてて見るかという選択肢と受けとめ、より”ダンスらしい”と思えるほうを選択していったからだ。同時にその選択において、慣習的なものの見方を批判して削ぎ落としてゆくことで、未知の視覚へと至るとも見込んでいた。それは、前半から後半への転換にモダニズム的な純化という方向性を認めたからでもあるし、ダンスに対置されたザ・消費財から連想される市場原理に飲み込まれた生産プロセスに未だ回収されていないものを、本作の当然の帰結と捉えたからでもある。
 だが未来の視覚を求めるならば、このやり方はわりとすぐに行き詰まる。後半見るという行為は、演出家に見よと言われたもの自分が見ようとしたものいずれに傾いても、予告されたものを追認する作業となるからだ。言葉で分節された指示から予想されるものは、同じ指示に基づくダンサーの解釈を容易に想定内に飲み込んでしまうだろう。おそらく本作で私たちが手にしていた可能性は、このように準備された選択肢から選ばされることの中にはなかったのだ。その間ずっと、別の可能性は野田のダンスにより示されていたのである。

見るためのタスク
 
 これまで特定のカンパニーに所属せず、数名の作家や指導者の作品で磨かれてきた野田は、本作で、ダンサーとして筆者が目にした中で最高のパフォーマンスを発揮したと思う。その方向性は、多数の視線の欲求を刺激し満足させるスペクタクルでも、今時の舞台芸術でもてはやされる輝かしく消尽する生け贄でもない。強いて喩えるなら、クライストが生きた舞踊家には不可能と論じたマリオネットだ。精神の働きを持たない人形は自然の法則のみと調和し、人間には到達できない動きの美を実現するとされるのだが、本作での野田もまた、自らの独創性でなく生活の必要に由来する動作を、指示されたとおり、動かされた動きとして遂行する容れ物に徹していたからだ。ではその強度はどのようにして生み出されていたのか。複数どころか互いに相容れない方向性を含む指示を、すべて同時で遂行することによってである。
 この演出のダンサーへの作用は、ポスト・モダンダンスの実践における「タスク」に似たものとして理解されるだろう。タスク*とは、身体とそのあらゆる延長を管理する主であろうとする自己、特に踊る主体が陥りがちな”表現する私”の支配下を出て動くために、パフォーマーに与えられる任意の作業のことだ。容易に内面化されないよう、主体との隔たりとともに程良い負荷を備え、上演作品においては、本作のように何がパフォーマーを動かしているのかを明示する効果的な設定もされる。もっとも通常は即興で用いられる方法論なので、再現に方向づけた本作の稽古がどのように行われたかは興味をひくところだが、反復のうちに自動化する度合いを、時間の進行とともに累積してゆく指示の負荷が上回るように塩梅しているのだろうか。最後のリプレイの前の指示には、それまでやったこと「全部」に「人形」の見立てが加わったのだが、それは過去の修正をすべて現在時に想起しつつ、並行して、習得したムーヴメントから身を引き剥がすように外からそれを操作しかつ外から操作されるように動けということを意味する。想像を絶する忙しさに違いない。しかしこうして分解してみると、同一の振付をその都度一回性の出来事として再生するダンサーというのは、すべからくこのような体験の構造をしているのではないだろうか。
 そのようにダンサーが行っていることを、つまり自らが身を置く「今ここ」ではない時空や関係へと拡張しているダンスを、同じ様にすべて見ようとすること。それは、ダンスという複合体を理解しやすい表象に還元したり手持ちの読解格子で分節したりして、そこからこぼれるものはなかったことにする”芸術の理解”とは対極にある、未来の視覚へのタスクである。つまり踊るためのタスクを、見るために転用する中に、ダンスを見るという主体的な行為にすり込まれたパターンを脱する鍵がある。それは、視点と焦点の間に限定された視野にとどまる私たちが気づき得なかった、見ることに際して発揮されるべき身体の可能性ではないか。そして、プロセスの中でその都度指示を選ばずまるごと引き受けてきた観客にとっては、この可能性を追うことは困難ではないはずだ。

おわりに

 美術や音楽における重要な仕事は、視覚や聴取の発見から数十年を経た1990年代以降ますます、受容–すなわち多様な個人の生活領域との接続可能性を孕む拡大されたフィールド–の探求とともに成し遂げられる傾向にある。それは舞台舞踊においても同じである。本作もまた、ダンスの可能性を、近代以降ダンスの主流であったムーヴメントの彫琢に任せきりにせず、それと連動した見る者の身体に根ざす視覚の陶冶において探っている。ダンスを踊る/見るという相関する行為の構造を解剖し、別の見方へとぐいぐい引っ張ってゆくプロセスの設計は、鑑賞者自身のまなざしを反射することもないではないがそれと対峙させるような拘束力を持つ作品の稀な昨今、際立っている。途上で私たちは、劇場における視線を枠づけている矛盾や、見るという行為の近代のあり方の限界など、見る力を窒息させるスペクタクルに溢れた日常に対する批評的モメントに触れたはずだ。その解決は、過去の幻視者たちから汲み取ってきたに違いない知恵により、未来を志向する主体の盲点を回避することでもたらされているのだが、この過去へのまなざしにより、劇場という可能性の場に身を置く私たちの身体に潜在する視覚が、カメラ・オブスクラから引き継がれつつ展開を待っている未来のそれにも接続するように思われる。
 『天使論』と名を変えた本作の再演は9月23日に催される。>>>http://www.sagami-endo.com/

*ポスト・モダンダンスの諸々の実験を踏まえた「タスク」について、詳しくは、ものを作る人見る人向けに噛み砕いた木村覚『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』を参照のこと。

古後奈緒子|こご・なおこ(ダンス批評、dance+

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Posted on 2014-09-29 | Posted in vol.22 | No Comments »

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