vol.22

言語vs.構造の攻防として読む|「We dance 京都 2012」 多田淳之介『RE/PLAY』

「We dance 京都 2012」 多田淳之介『RE/PLAY』(2月4日、元・立誠小学校 自彊室)

提供:「We dance 京都2012」実行委員会

提供:「We dance 京都2012」実行委員会

 多田淳之介作・演出『RE/PLAY』は、「We dance 京都2012」の中の「演劇とダンス/身体性の交換」と題された企画プログラムの一本である。演劇人で演出家の多田のもとに関西のダンサーが集結し上演を試みた。演劇とダンスという異ジャンル同士の出会いの点でいうと、ダンスは身体を動かす基本言語の創造に、演劇はそれを構造化し時間軸上を運ぶ推進力に、それぞれ特化されていた。演出家・多田淳之介の仕掛ける劇構造の圧倒的な力には、ダンスとは言語を違えた、別の領域の創造性というものを目の当たりにした。
 8名のダンサーが舞台に散在し、思い思いに動いたり佇んだりしながら、それぞれの欲するところにしたがった、非焦点的でアトランダムな動きの情景を繰り広げている。キャラクター豊かな動物たちがそれぞれの生態にしたがって棲息する密林の様子にも似て、民主的で博物誌的な身振りのパラダイスといった様相だ。しかし後にこの情景が任意でも、はたまた即興でもなく、かなりきっちり限定された振付と、寸分たがわぬ配置と動線により、ひとつの完成したシーンとして演じられていることが判明する。というのも、シーンはこの後、幾度となく反復されることになるからで、反復は後に確かめたところ、ゆうに10回を超えていた。

 実際、まったく同じシーンの10回以上にわたる繰り返し=REPLAYという事態は、興奮と苛立ちの入り混じった一種異様な雰囲気をもたらすものだった。まさにミュージックテープの巻き戻しを思わせる「リ・プレイ」で、そのループ構造の出口のなさ、終わりのなさは、死ぬことすらできない時間のメビウスの輪状態、覚めたと思いきや冒頭に戻っている永遠の夢の恐怖を思わせる。サザンオールスターズやビートルズ、Perfumeといった、これまた飛び切りの楽天的なポップスの楽曲が、反復のうちに狂騒の色を濃くし、平和裏に展開していた身振りのパラダイスを徐々にネガに反転させるのである。『オブラディ、オブラダ』のイントロのピアノが再びの始まりを告げて響き渡るたびに、演じる者、見る者双方に、どっと徒労感が滲みわたり、世界が何者かの手のひらの上で弄ばれていることを思い知らされる。何者かとは、いうまでもなく、君臨する演出家である。
 
 今回の舞台にはインターバルが設定されており、これが全体の構成にメリハリをつけるという意味でも、また再開後に反復の過酷さを倍増するという意味からも、大いに功を奏している。『オブラディ、オブラダ』を終え、床にくたばり果てているダンサーたちが、横たわったままの姿勢で、口々に台詞を交わし始めるのである。聞いていると、どうやらこの上演が終了したあとの打ち上げの席であるらしい。「お疲れー」と慰労しあい、運ばれてくる料理を分け合い、共にひと仕事をやり遂げたあとのさわやかな充実感が醸し出される。場所は焼肉店らしく、注文をとったり皿を運んできたりする店員のセリフも混じっていて、活気ある店内の空気や、仲間同士の気のおけない宴の様子が、突っ伏したままやりとりされる軽妙な会話によって活写される。宴を終え、店を出て、夜空の下をそれぞれが帰途に着く別れ際の情景までが、人生に稀に訪れる幸福なひととき、二度と再生=REPLAYされ得ない、かけがえのない時間として描かれる。反復構造の本編に対置された、反復されない生の時間である。しかもこの甘美なまでの台詞のやりとりは、即興的な部分もあったと見えるが、多田の描写力の成せるところも大きいのだろう。
 さて、この幸福な情景で終わってくれることを誰もが願い、しかしそれでは済まないのだろうとの予感に違わず、ダンスは再び始まる。それでも楽曲が『ラストダンスは私に』とくれば、ああこれで本当に踊り納めかと思う。ところがそれすらも裏切られ、時間の果てしないループ構造が甦るとき、そこに演出家の悪意すら見え隠れした。

 ところで今作『RE/PLAY』にはオリジナルの演劇版『再生』(2006年、2011年リニューアル版は『再/生』)があり、私はこれら演劇版の存在を、この日の上演後に知った。観劇した人の話やいくつかの劇評(*)によれば、3回にわたり場面が繰り返されるという劇構造の中で、回を重ねるごとに役者たちは疲労してゆく。その疲労する身体が示すところとは、反復されたそれぞれの回が決して並列の関係にあるのではなく、当の演技者にとっては直線的な時間の、一回性においての経験にほかならないという事実である――これが『再生』という演劇作品へのスタンダードな解釈とされているようだ。とすると、このスタンダードに対して、本稿ではどうやら真逆の読みをしてきたらしい。ここでは本作の力の源泉を、反復する劇構造自体に由来するものと見做した。この構造自体の前景化により、個々の身体レベルで生起しつつある諸々の現象や、個別の身体性といった細部は捨象されていった。だが多田淳之介が演劇版と同様の試みを今回ダンスに置き換えようとしたのであれば、ここは視線を身体に“おろして”見てみる必要がありそうだ。
 ここで鍵となる演技者の疲労に着目して再度振り返ってみるに、ダンス版である『RE/PLAY』においてダンサーたちは、その鍛えられた身体能力とスタミナによって、ほとんど疲労を表沙汰にすることなくパフォーマンスを全うしたと言っていいのではないか。いや疲労の色は濃厚に滲んでいたが、それは先述のように身体的な疲労というより、繰り返しの構造の終わりのなさ、出口のなさに対する息苦しさや辟易感のほうであったと私は受け取った。そしてこの辟易感さえも、ダンサーらの大半はイントロが再び鳴り出す瞬間に、最初の動作に入る前の一瞬の“溜め”の空気として漏らすのみで、シーンに入ってからは、むしろ己が身体能力の限りを尽くして、与えられた身振りやムーブメントを律儀なまでに存分に生きたのではなかったろうか。ひとり、ダンサーの松本芽紅見にいたっては、こめかみにピリピリと痙攣を走らせ、回を重ねるごとに怒りと苛立ちをあからさまに表情にして見せる。そしてその怒りや苛立ちをパワーに、舞台上での輝きをいっそう増していく。
 演劇版『再生』が疲れていく身体の現前をもって、生の時間の一回性を示したのだとして(それは演劇の特質であり価値でもあるだろう)、ダンスの身体はこれらの価値をただ従順に再現したわけではなかった。なかなか破綻しないダンサーの強靭な身体は、演出者にとって誤算であったかもしれない。結果、リ・プレイは回数を重ねる。聞けば反復は当初12回の予定であったところ、自ら音響卓を操作する多田淳之介によって、本番の舞台では13回に増やされたのだという。
 いつか訪れるはずの終わりを、期待しては裏切られるというループ構造を繰り返しながら、回を重ねるごとに疲労どころか死どころか、いのちの輝きを増していくそれぞれの身体は、劇構造の圧制・横暴に、身体言語のレベルから徹底抗戦していたのであり、構造vs.言語の攻防をリアルタイムで生きたといえる。その意味では、これもまた並列ではない、再現され得ない一回性の時間の経験であったと言えるだろうか。

* 劇評サイト「ワンダーランド」より高木登氏による『再生』劇評(2006.11.17投稿)、およびシアターアーツ51号より中西理氏による『関西からの発言』を参照

竹田真理(たけだまり/ダンス批評)

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Posted on 2014-09-29 | Posted in vol.22 | No Comments »

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