Vol.20

演劇創造における「構え」|時間堂『廃墟』

時間堂『廃墟』(4月3日 シアターKASSAI マチネ)

©松本幸夫

©松本幸夫

 三好十郎の1948年の作品『廃墟』。この長大な懺悔劇とでも呼びうる戯曲に、真正面から対峙する集団の姿勢。この舞台の核であり魅力はそのことに尽きる。そして十分に互し、成果を挙げた(演出=黒澤世莉)。

 懺悔たる所以は、『浮標』(1940年)で「俺達は万葉人達の子孫だ」と記したように、ナショナリズムへ転向したと見られる三好の自己総括が反映されているからである。一人の作家として敗戦を受け止めようとする決死の思いが、台詞の一つひとつに重く込められている。

 大学教授を休職中の柴田欣一郎は、三好の立場を体現していると思しき人物。「愛国者」であるが故、勝ってほしいと思った戦争に日本は負けた。そのことについて彼は「国民一人ぶんの戦争責任が有る」と自らを裁く。日本民族としての矜持を持ち、再び日本が立ち上がるためには、一人一人が真摯に日本の誤りを分かち合い、反省すべきというわけである。闇市で手に入れた物資で生き、のうのうと何事もなかったように大学教授を続けることは無責任極まりない。愚鈍なまでに「真面目」な柴田を復職させようと、教え子・清水八郎が訪ねてくる場面から舞台は始まる。

 清水による説得は失敗に終わる。だが、衰弱の一途をたどる柴田に生きてもらうため、闇物資ではなく校庭で取れたジャガイモを清水は渡す。ところがそのジャガイモは、焼け落ちた柴田家の建築費を取り立てに来た棟梁の娘・お光に借金のかたに奪われる。

 遠縁の焼け残った一室を辛うじて借り、そこに8人がつましく生活をしている困窮。闇物資を手に入れようにも僅かな金銭ではどうにもならない現状。全員の根底に等しく認められるのは、身体に流れる「疼き」である。その持って行きようのない感覚が、立場を異にする思想を持った者同士に、観念と論理がない交ぜとなった議論へと向かわせる。長い台詞を一気呵成に放ち、それを受けた相手がまた膨大な台詞で説得しようと応酬、それに反応してまた第三者が噛み付く。戯曲に「(略)速射砲のように早く、かんだかになり、かつ、互いに他の人の言葉を中途でたち切ったり、同時に言い出して、ぶっつかり合ったりする。最後に至るまでに、それは益々はげしくなって行く」と記されているように、劇半ばから激しさが増してゆく。欣一郎が手斧を食卓に勢いよく突き立てて倒れ、暗闇の中で慟哭するまでの2時間30分。ノンストップで走り続ける作品は、非常に緊張感が漂う。

 戦争指導者と戦争犠牲者とを厳密に分け、日本が誤った道に再び進まないよう、プロレタリア勤労階級からの国体改変を推し進めようとする、マルキストの長男・誠。それに対するのは、先に記したように民族主義的な立場から、生きる者全てに責任があると考える父・柴田欣一郎。そして両者の白熱した議論を根底から覆しにかかるのが、戦後派の現実主義的デカダンスの次男・欣二である。理想主義的革命、原罪主義、運命論的退廃。それぞれの論理が個々説得力を持って発せられる。だが、強靱な言葉が紡ぐ論理には、それだけでは十分に掬い上げることができない感情の澱が渦巻いている。観る者を圧倒するのは、両者が不可分となって表出する様にある。それを実現するためには、ただ情念に任せて言葉を発語すれば良いというものではない。それでは三好の重厚な言葉にはとても抗しきれない。言葉の論理を理解しようと努め、発語する技術をまずは要するはずだ。それはつまり、戯曲と真っ向から対峙し、格闘しようという覚悟を要するということである。それほどまでにこの戯曲は硬質なのだ。創作におけるしっかりとしたその「構え」で以って戯曲と拮抗した結果、台詞を巧に扱う箇所があったり負ける箇所が当然出てくるだろう。理性には還元でき得ない激情を台詞に乗せるためには、その格闘の一切を俎上に乗せるしかないのだ。それをこの集団は身体性で感受して創作に当たっていた。これは、演劇創造における重要な点である。

 演出面でも、居候人・せいと誠との淡いプロポーズのシーンには特別目を見張るものがある。ヒューズが飛んでしまい月明かりだけになった中、夫婦仲が冷え切っているにも関わらず煮え切らない態度を取り続けるせい。彼女に業を煮やし、内なる熱情を何とか押さえ込もうとしながら静かに詰問する誠。それ気付きながら、物見遊山に見物する欣二。内からこみ上げてくる感情を抑えた人物と、からかいついでに様子を窺う者が闇夜に点在する、非常に美しい場面だった。緊張感を基点として静/動を巧みに設える演出である。いかに作品と渡り合うか、水平軸で戯曲を捉えた結果、劇団自体がひとつの貌を獲得することを可能にさせた。それは、戯曲をいかに上演するかという、最終的なゴールに奉仕する上下関係が生み出す没個性とは根本的に異なるものだ。

 そして真摯に戯曲に向き合い、「揺らぎ」や「疼き」を身体感覚として体現しようとする姿勢は、地震と原発事故により未曾有の非常事態を迎えた3.11以降の状況にこそ、相応しいものである。今、どのように生き、どのような選択をするのか、一人一人が辛い行動を強いられている。苛烈さだけでなく、また頭でっかちな理論だけでもない、常にニュートラルな視点から物事に対峙すること。そのことによって、対象物と自らの生との化学反応をつぶさに窺うこと。そこから次なる一歩を踏み出そうという意思は、人間の生き方の問題として今後ますます要請されるだろう。この作品を通し、創作における真摯な「構え」の重要性に、改めて気付かされた。

藤原央登(ふじわら・ひさと/劇評ブログ『現在形の批評』主宰・[第三次]『シアターアーツ』編集部)

Tags:
Posted on 2014-06-23 | Posted in Vol.20 | No Comments »

Related Posts

 

Comment





Comment