vol.21

別の演技は、観客と別の関係を結びうるのか|ルネ・ポレシュ作・演出『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』

ルネ・ポレシュ作・演出『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』(9月24日@豊洲公演西側横 野外特設会場)

(C)片岡陽太

(C)片岡陽太

はじめに
 エントランスを通り抜けると、客席の前方と左右はつうつうで、今そこを抜けてきたばかりの光景が開けている。むき出しの埋め立て地には、手前から奥へスクリーン、数台の車、小さな舞台や広告塔らしきセットがまばらに置かれ、その背後には都心のビル群。この虚実の境目が曖昧な映画都市に、観客は隠れるところなく身を置き、同じ空間で都市の論理に曝され行為する人々を追うことになる。従来の鑑賞の枠組みを揺さぶろうという作品の狙いは明らかだ。同様の野心を持つ作品は、すでに現代演劇には溢れかえっているように思われる。一方で、作品への観客の関わり方は、それに伴い多様化しているとは言い難い。むしろごく最近でさえ、他のカルチュラルグッズと同様の一種の消費の形態へと方向付けられてきたのではあるまいか。ならばそもそも私たちは、なぜ劇場へ、祭りへ足を運ぶのだろう。このような疑問をより大きな問題系の中でつきつけてくるのが、本作である。

1) 俳優による俳優の俳優のための演劇 
 まずは導入部に基本の設定を見ておこう。冒頭では前触れもなく、セットの一部である軽自動車とトレーラーが走りだし、上手側からパトカーが出動する。カーチェイスが始まるのかと思いきや、手狭な広場でぐるぐる回るどれがどれを追っているのかは判然としない。次いで登場する女優帽を被った女は、「ここ」はローマの由緒ある映画撮影所で、自分は映画を撮るために来たのだが、誰もいないし、セットや道具やあれやこれやが「ない」とふれて回る。この設定に合点がいったところで、別の女優とおぼしき女が登場して混ぜ返す。「ここ」で行われるのは演劇のはず、なのに回り舞台が「ない」ではないか、と。二人ともないものばかりを論うのはなぜなのか? 映画なのか演劇なのか? うやむやのまま他の俳優も加わり、話題はいずれであれ彼らに共通する関心、つまり「何を演じるか」へなだれ込んでゆく。そこでもまた、これこれの人物をやるには同様の外見上の特徴がないだの、復興劇をやるには歴史的衣装が要るだの難癖をつけ合い、ならばと別の人物や俳優が次々呼び出され・・・という交代劇がひとくさり。この間、車の中からカメラが俳優たちの姿を追いかけ、その様子は字幕と兼用のスクリーン上にライブ中継されるようになっている。

 総合すると『無防備都市』は、様々な役に挑戦する俳優(たまに監督やスタッフ)に扮する出演者たちが、カメラの目と観客の目の間を行き来して、演技とそれをめぐる考察をライブで披露する作品となる。つまり、プロの俳優たちが、自らが当事者である問題について、注釈を交えて実演するという趣向だ。同時にここまでで呑み込めたのは、作中、彼らの演じているもの—人物像、場面設定、アンサンブルにおける役割など—が、めまぐるしく変化するということ。次第にパターンとして認識されてゆくのだが、本作には、演じる者/演じられる役の関係を流動化する契機がこれでもかと埋め込まれている。

 例えば、冒頭のトムとジェリー風追いかけっこは、続けざまに女優と撮影機材との間でも繰り返されている。マイクを掲げて必死についてくる音声係をさんざん振り回しつつ、女優は言い放つ。「マイクはどこよ? ないと声が枯れる!」他愛もない場面のようだが、このような二つ巴、三つ巴の関係は、周到に組まれ随所に盛り込まれている。そうして生じる立場の反転や、場合によると権力関係の転倒は、一貫して作品を滑稽な調子で彩ってくれてもいる。

 俳優たちはまた、一作品の中では類をみないほど演じる役を取り替えるが、それは第一の女優が説明したように、ここが映画の撮影所だからである。この大枠の中で、ロッセリーニの伝説的三部作やドイツの有名なテレビシリーズ『赤い土』などの場面が次々と転用され、さらに個々の現場でも設定や役割が変わってゆく。例えば、とある撮影現場では、決定を下す監督役がいない、必要だということになり、男性の一人がカチンコを持たされるが、いざ撮影が始まると次の台詞を言う役を演じる者が足りないことが判明し、慌ててその役を引き受けさせられたりする。映画の撮影現場らしく、これら頻繁な場面のカットとスタートの間に意味や感情面でのつながりはないが、そのことにより本作は、映画俳優の仕事の要所を切り取り、かつ不連続な事象から物語をねつ造するという、後に批判される歴史の実態を暴露してもいる。

 このような映画の特性は、第二の女優が持ち出してきた演劇との対置によっても際立たせられる。例えば目の前では通しで演じられているにもかかわらず、スクリーン上では断片化する俳優たちの演技は、映画と演劇を、対照的な産業形態、競合するメディアとして印象づけるし、そこには実演モードと注釈モードの切り替えによって明示される、演じられた虚構/演じている現実といった含意も重ねられるだろう。そして、この映画と演劇という枠組みのとり方によっても、俳優たちの行っていることの意味合いは変わってくる。

 以上のように、本作の主題である「演じる」という行為は、不断に切り替えられる場面や枠組みなど、大小複数の設定の中に置かれている。したがって、「ここ」がどこで、「彼/彼女」らが何を演じるのかといったことがしばしば話題にされるものの、それが一つに定まることはない。むしろ俳優たちの演技は、固定した人物の行為や内面に統合されないマルチタスクに分節され、それを希有なやり方で遂行する身体には、設定ごとに異なる緊張関係を結ぶ意味が引き寄せられてゆく。本作を牽引するのは、このような複雑な論理の絡み合う演技のダイナミクスに他ならない。

2)映画都市の現実 〜プレカリアートか自由業か〜  
 上記のような演技を追う中で、浮かび上がってくる問題系に目を向けてみよう。先に触れたように、映画都市では映画俳優たちの演技の、仕事としての側面が切り取られており、併せて「演じる」ということをめぐっては、労働やビジネスの観点から、多くの問題が提出されている。実のところ、高速で吐き出されるテクストには、スペクタクル産業の実態と批判理論を参照する、追い切れないほどの注釈が含まれているのだが、その矛先はおおかた歴史と資本主義へと向けられているようだ。数分に一度は訴えられる「ない」の意味合いはそれぞれ多義的に読めるが、並べてみるとそのことは一目瞭然。カメラ、マイクなどの機材、水、電力、シャワーの湯といったライフライン、そして歴史的風景、歴史的衣装、歴史的身体、歴史的・・・。確かに映画は、行為する者とそれを見る者がいれば成立するとされる演劇とは対極に、必要とする資本も生み出す資本も規模が大きい。かつそれは、勝者の物語としての歴史をねつ造し、さらに既存の歴史から権威を得て物語を強化・再生産する産業とも言える。このように、俳優たちが自分たちの労働環境として提示しているのは、すでにそれぞれ矛盾や欺瞞を孕んだ二つの生産システムが、手を組んで近代に肥大した権力機構だということになる。

 そこで俳優たちは、システムの要求に従って「ただ機能する」にすぎないが、その際執拗に求められるのは、一つには、「ホーキング博士といえば鼻のニキビ」といった類の、あてがわれる人物像と合致する外見上の特徴であり、もう一つは、「歴史的身体」が備えるようなカリスマ的権威や魅力である。このような力がないと訴えるたび、俳優たちは、複製技術の台頭と連動して変質した礼拝価値を呼び出して、自身と自身が従事する映画に商品価値を与えようとしているかのようだ。いずれにせよ、役を選ぶ権利もなく、与えられた役を内面化するいとまもなく、あちこちの現場を渡り歩く俳優にとって、まさに資本は身体だけなのであり、そこで機能しようとすると、身体を個々の設定に従わせて断片化するほかない。つまり、プレカリアートが生産者として主体的に自らの商品価値を上げようとすると、自らの身体を客体化して搾取することになり、そうした果てに彼らが達成するのは、資本によってねつ造される物語に、真正性と権威を粉飾する仕事となる。つまり、機能するほどにそれと知らず非人間的なシステムの増強に貢献するという矛盾に陥るのだ。こう考えてくると、本作で再現を試みられるネオレアリズモのヒューマンドラマなど、レジスタンスもまた、この機構に飲み込まれてしまうという、映画都市における矛盾の最たる例である。終盤で連呼される、「ロッセリーニは、子供たちが命を大事にできるようにこの映画を作ったのよ」は皮肉に響く。

3)プレイとロールプレイあるいはタスクのあいだ
 以上のように、この都市の末端労働者としての俳優を取り巻く状況は苛酷である。一方で、彼らは矛盾を身をもって指し示すにとどまらず、同時並行で、ダブルバインドの状況を生き延びる術のようなものも実践しているように思われる。それは、このスペクタクル産業において機能することを、あらゆる場面で拒否すること、さらに目的主義、完璧主義そのものを無化することによってなされる。

 映画撮影所という枠組みの中で再現される映画が、歴史性やポピュラリティといった権威を帯びたすぐれた商品であることは、すでに述べた。その筆頭である『無防備都市』は、映画史に名を残し、今日テレビドラマにいたるまで支配的となった演技の規範を確立した。さらにそれらに共通するのが、全体主義や戦争、貧困などの支配下にある市民の抵抗という、高貴な主題である。これにより当然として目的化される忠実な再現なるものを、ポレシュの俳優たちは、こぞって未完に終わらせる。そのためには、まず端的に失敗してみせるというやり方がある。例えば、台詞につまってプロンプターの助けを借りてみたり、父親の死というドラマの頂点で吹き出してしまったり。そこだけ見れば、一見名作を茶化したパロディだが、本作においては個々の場面を早々にご破算にする一連のアクションの一つに過ぎない。あるいは、目的を全うするために必要となるものがないことをいち早く見つけ出し、完成が不可能であることを指摘するというやり方もある。こちらはその都度の設定を誰の責でもなく中断する契機となり、同時に完璧主義も無化する有効な戦略となる。というのは、個々の身体的な特徴がなにかしら欠けていると言っては演じる人物像が繰り返し取り替えられる時、その果てにはすべての特徴を満たす身体などあり得ない、つまり規範的な目的設定のほうに無理があることが露わになるからだ。こうして設定の更新が短いスパンで繰り返されると、俳優の演技は開始と同時に次の中断が予期されるような、運動の終点/目的を持たぬ自律性を備えた遊戯の様相を呈する。実際の俳優たちの演技に目をこらしてみると、ドラマ演劇におけるような没入型とは異なり、いついかなる時も中断でき、別の設定を接続することができる距離を保った、ごっこ遊びに近いものに見えてくる。このとき俳優は、うまく機能しようとする主体というよりは自動的な遊戯運動を持続させようとする主体として観察され、ならば消費、評価、読解などの対象となる「見せる」、「表現する」主体とはみなしえない。ここには、客体を生じ自分が主であることを維持しようとする主体のあり方に対し、別の関係を生み出す可能性が見いだされるのではないだろうか。

おわりに
 以上のように、このポスト・ドラマ演劇的なもろもろの手法は、権力機構の内部で機能することを、演劇ならでわの手法で拒否することへと明確に方向づけられている。『無防備映画都市』において、観客に差し出されているのは、欠損のある商品、読解の不可能なテクスト、対象化しえない俳優の存在である。

 したがって鑑賞者は、目の前の俳優たちの翻弄される身体から彼らが指摘する問題をたとえ「読みとった」としても、それを傍観するだけでは終わりとならない。ここに示されたスペクタクル産業の構造を敷衍すると、同様のシステムの一端に、作品や俳優という商品に向き合う自らの役割がまずは自覚されるからだ。それは特に、2000年以降の日本の文化シーンで、選択し消費する主体としての自己実現に方向付けられ、そのことに気づいていない観客には、反省の端緒となるかも知れない。翻って、そこには消費に対する抵抗として奨励されてきた、読解というかたちの観客の能動性に含まれる非対称性の問題も提出されているように思われる。何より、目の前の俳優たちが遊戯者として認識されるのなら、私たちは当事者に対し鋭く区別される傍観者ではない。俳優が興じる遊びのしくみ、ルール、タスクを徐々に手にしてゆくとき、さらに単に読んで理解するだけでなく、また考えるだけでもなく、そこに自分でも実践し得る知恵を見いだしてゆくとき、観客は、観察し、遊びのルールを共有し、見守る共遊戯者、さらにその先へとパースペクティブをたえずシフトさせてゆくのではないだろうか。

古後奈緒子(こご・なおこ/ダンス批評)

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Posted on 2014-07-22 | Posted in vol.21 | No Comments »

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