vol.21

再生の祈りをこめて|いわき総合高校演劇部『Final Fantasy for Ⅺ.Ⅲ.MMⅪ』

いわき総合高校演劇部『Final Fantasy for Ⅺ.Ⅲ.MMⅪ』(2011年10月10日@Art Theatre dB神戸)

撮影:清水敏洋

撮影:清水敏洋

 福島県立いわき総合高校総合学科にはカリキュラムの一環として芸術・表現系列(演劇)がある。五反田団の前田司郎やままごとの柴幸男、東京デスロックの多田淳之介など東京の若手演出家がワークショップや作品創作を行うことでも近年話題になっている。今回、神戸・新長田で上演した演劇部は、その中でもさらに演劇に取り組みたい学生が放課後に行う課外活動だ。

 高校演劇がいわゆる一般的な演劇と違うのは、劇を創作するチームであると同時に、普段は一緒に勉強するクラスメイトでもあることだ。テストの成績に一喜一憂することもあれば、居残りで掃除をさせられることもあるかもしれない。隣のクラスの誰それが好きという恋バナで盛り上がることもあるだろう。ともあれ、そんな生活の延長にクラブ活動としての劇がある。その姿勢が時にプロの俳優さえも凌駕するような瞬間を持つのは、劇世界の役を越えたところで、高校生の実直さやエネルギーがストレートに舞台に表れるからだろう。

 しかし、生活そのものがいっぺんに変わってしまったとしたら。生活に寄り添っていた演劇はどう変わってしまうのか。

 3.11以降、「演劇は被災地に何ができるか」というテーゼが繰り返される。チャリティーという形で直接的な手助けを模索する者、「自主規制」というムードに声高に抵抗する者、その距離の取り方は様々だ。しかし、生活と隣り合わせの現場で演劇を創作する福島県立いわき総合高校は、被災したことによって、自分たちの演劇そのものを変えなくてはいけなかった。変わらざるを得なくなった演劇で、彼らはどのように刻々と移りゆく現実に向かいあうのか。今思えば、私の関心はそこにあったように思う。

 舞台は、被災後の高校の教室。女子高生のひろこは、津波で友人のきりかを亡くした。助けることのできなかった自分に負い目を感じているひろこには、亡くなったはずのきりかが見える。お弁当箱に入ったプチトマトをきりかに食べろと言われるひろこ。ひろこはプチトマトが嫌いらしい。そこに良輔、崇太、泰規ら三人の男子高生が登場。テンポよく畳みかけられるセリフの応酬は、教室の楽しげな雰囲気をそのまま表しているようだ。彼らは、危険構造物の指定を受けた北校舎に、「復活の呪文」があるという情報を聞き、ひろことともに足を踏み入れる。『Final Fantasy』というタイトルが示すように、テレビゲームの世界よろしく、ホアン保安院と名乗る女三人組、元東電社長、ゲンシーロや原子力を推進するフランス大統領がモンスターとして登場する。

 この筋書きを今時の高校生が紡いだ二次元の産物と受け取ることはできない。彼らの身の周りで起こっている事は、嘘のような本当の出来事である。いわき総合高校は、東京電力福島第一原発から約45kmの距離にある。東日本大震災で北校舎は危険構造物となり使用できなくなった。警戒区域内に自宅のあった出演メンバーもおり、引越しを余議なくされたという。高校の文化祭はこの震災で中止になった。風評被害の影響もあり、心ないデマのせいで「好きになった人と結婚できないかも」という不安を抱える高校生もいたらしい。いわきの高校生は、演劇の力を借りながら、そんな非日常に自分たちの身体と言葉で抗おうとする。

 例えば、原子炉を戯画化したゲンシーロと呼ばれるモンスターに立ち向かうときだ。放水作業もままならず、ゲンシーロへの対処法が分からない男子高生は、ふとした弾みに「寒いギャグ」を言えば、モンスターが冷却されることに気づく。布団がフットンだ、校長絶好調というギャグに続き、ゲンシーロ、いいかゲンにシーロとギャグを繰り出しモンスターを追い詰める。ユーモアを交えた馬鹿馬鹿しい場面だが、ギャグをいう高校生の表情は真剣そのものである。心底いい加減にしてほしい現実。「君たちに未来はない」と言い放つモンスター。この場面だけでない、元東電社長やフランスの大統領に立ち向かう高校生が見せる素顔には、虚構のストーリーを借りながらも、どこへぶつければよいか分からない怒りがはっきりと表れていた。

 鋭い社会諷刺が行われているわけではない。それでもこの作品が意義深いのは、震災によって失われた物を、彼らが必死に取り返そうとしていたからだ。復活させようとするのは、実際に中止になってしまった「俺たちの文化祭」である。ひろこが回想するきりかとの思い出も、これまでの何気ない日々に支えられている。たわいもない口喧嘩や一緒に埋めたタイムカプセル、片耳ずつイヤホンをしながら流行りの曲を聴いて、お弁当を食べた日。彼らが本当に求めているのは、メディアが連日報道している責任の所在ではなく、これまでの当たり前の日常だ。カードゲームの力を借りながら、必殺技コマンド「国民の思い」でラストボスを退治する高校生たちは「俺たちの文化祭」を取り戻す。劇の役を越えて、文化祭でできなかったプロレスをする男子高校生の姿は、本当に奪われた日常を楽しんでいるようで胸を打たれた。

 もっとも、虚構のモンスターを倒したところで本質的な解決にはならないだろう。幕切れ、きりかとの別れを悲しむひろこの慟哭は、まだ十分に受け入れることのできない多くの被災者の思いを体現しているようだった。戻りたくても戻れない現実は大きくのしかかる。けれども、高校生は自分たちの体験を拠り所にしながら、一心に再生の願いを舞台上に発露する。

 その願いは決してリアリティのないものではない。カーテンコールで涙ぐむいわきの高校生。この公演が終われば、すぐ夜行バスで福島に戻り、普段の授業を受けるらしい。怒りを鎮めることも、静かに鎮魂することもままならない中、現実においても劇世界においても彼らは日常を取り戻そうと奮起する。生活と隣り合わせの演劇だからこそ、物語は説得力を持った。

 終演後歩いた新長田には鉄人28号が聳えたち、多くの親子連れでにぎわっていた。阪神大震災から16年かけてこの街も復興をした。演劇は即座に人命を救助するようなものではないし、その効果がいつ現れるかは分からない。しかし、10年、20年先の未来へむけて、いわき総合高校の上演はこの先の長い指針となる意義のある作品だった。

(須川渡・すがわわたる/大阪大学大学院文学研究科博士後期課程)

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Posted on 2014-07-22 | Posted in vol.21 | No Comments »

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