vol.21

岡田利規の演劇実験の位置|あうるすぽっとプロデュース『家電のように解り合えない』

あうるすぽっとプロデュース『家電のように解り合えない』(9月25日 あうるすぽっと マチネ)

撮影:青木司

撮影:青木司


 人間関係の理解を疑い客体化して問いかけた作品が、フェスティバル/トーキョー11参加作品の『家電のように解り合えない』である(作・演出=岡田利規)。電化製品にまつわる詩集『風姿家電』を出版した城之内小百合子が自作の詩を暗誦する傍らに、ダンサー・森山開次が動き回る。空間には、朗読テーマであるカラフルな掃除機や冷蔵庫が雑然と並ぶ。最後には、中央にある機器から泡が吹き出るなど、舞台表象はシュール。だが内容は、ダンサーと俳優は分かり合えるのか、さらには両者が融合し第三項の世界を出来させることはできるのかが〈分かりやすく〉問われており、決して難しくはない。

 そのことを象徴するのは、森山開次のダンスを見ながら小百合子1が冷たく突き放すシーンである。森山は家電を表象したダンスを踊っているのかもしれないし、はたまた全然別の意図で動いていたのかもしれない。しかし、小百合子1は「私は、感性が貧しい人間だから、解らないわ」とそっけない。その時、森山のダンスを理解しようとしていた思考が停止する。そして、このダンスは意味不明なものであり分からなくていいのだ、という安心感を観客は得る。もうひとつ別のシーン、人物AとBが互いに分かり合っているとして、それを見るCにはそのことが伝わっていると言えるだろうか、という箇所。その際、舞台後半で同一人物であることが判明する小百合子1と2は、とても日常では見かけないような奇妙な動きで、仲の良さを表現する。その後「……このように解り合ってます」と言い放つ。こういったシーンの積み重ねが、人と人は分かり合えないかもしれないが、その努力を惜しんではいけないというメッセージへとつながる。最後は「解り合えるとか解り合えないとかの問題は、ここ(筆者注・劇場)を出てから始まるのです」と、観客に問題提起して幕が閉じられる。

 岡田利規の作品は、『わたしたちは無傷な別人であるか?』(2010年)以降、直截的なメッセージを強く打ち出すようになってきた。今作においては、不断の努力が必要という、当たり前すぎる結論を観客に投げかける。それ自体、もっともすぎる意見であるため、納得するしかないし反論の余地はない。テーマ主義的に見れば非常に〈分かりやすい〉のである。このテーマは、岡田利規-森山開次、森山開次-安藤真理&青柳いずみ、そして作品-観客と何重にも入れ子になって作品に通定している。

だが、ここにひとつの罠がある。作品テーマは分かりやすいと我々が判断したとして、果たして本当にそれで作品を分かったことになるのか、どこまで行けば本当に分かることになるのだろうか、というのがそれだ。それを考え始めると答えの出ない迷路へ入り込んでしまう。「分かり合うとは何か」が支柱である以上、作品を肯定するにしても否定するにしても反対意見が頭をもたげる。いわば作品の中に、両論が既に併記されているのだ。私たちにできることは、ロジックゲームに参加することだけ。その果てに、分かり合うための努力が必要だというラストメッセージに再度納得させられてしまう。そう、この作品は演劇構造の異化を行い、観客を覚醒させて思考を促すもののように思われるが、その実、答えはあらかじめ用意されている。そのため、観客が入り込む余地はない。既に作品内で自己完結しているのだ。つまり、岡田利規という神の視点が明確にあり、その手の内から外へと思考を広げることはできない構造になっているのである。

 先ほど触れた努力というテーゼは、俳優が森山開次のようにしなやかに踊ることはできるのか、という実験の場で表れたものである。森山が振り付けたダンスを音楽にのせて二人の女優が踊る。しかし、身体の硬い二人の動きは、森山の意図したイメージとズレてしまう。たまらず森山が手本を見せる。それに合わせて二人も踊るのだが、余計に違いが際立ってしまう。そのあまりの違いには笑わせられる。技術向上の努力さえがあれば、ダンス下手な俳優でもダンサーのように踊ることは可能か、という問いがここには孕んでいる。
 見落としてはならないのは、私たちはこの時「3人のダンス」を見ているということである。俳優がダンサーの踊りになるにはどうすればいいのか、その可能性と不可能性は、確かに人と人とがいかにして分かり合えるかという作品テーマに沿ったものではある。しかし、その前段までのこと、すなわち発語する俳優の周りを森山が踊っているという状況においての分かり合える/合えないという問題が捨象されている。3人がダンスというひとつの要素に向うことよりも、「2人の俳優+ダンサー」の相互理解を探ることの方が、隔絶が大きい分だけ困難だ。本当に追求されるべきなのはこの点ではないだろうか。

ダンサーと俳優の共同創作という問題は、例えば地点が山田せつ子と安部聡子の組み合わせで断続的に行っている(直近では2011年8月31日~9月4日までシアタートラムで公演された『トラディシオン/トライゾン』)。俳優とダンサーが競演した場合、俳優の語りにどうしても意識が向いてしまう。本作でいえば、冷蔵庫なら冷蔵庫の詩を語る俳優の言葉と内容に、観客の意識が集中してしまう。ダンスはその時、ほとんど風景と同一のものとなる。それを回避し、ダンスに注視させる方法としては、俳優もダンスを踊ることは有効だ。しかし、それは軸足がダンスに移り焦点が1つになったためである。そのことはつまり、俳優とダンサー両者の融合は、どちらかのフィールドに限定することでしか実現しないということを示しはしまいか。そういう意味で件のダンスシーンは、テーマを体現してはいるが演劇の重要な点が後景に追いやられている。

 さらに言うと、俳優とダンサーの不合一ということは、岡田利規が理想としてきたものではなかったか。思えば『三月の5日間』でチェルフィッチュが注目されたことのひとつが、だらだらとしたノイジーな身体と超現代口語であった。岡田は2005年7月号の『ユリイカ』で、俳優から出力された身振りと言語(声)はバラバラであることが良いと述べていた(「演劇/演技の、ズレている/ズレていない、について」)。俳優は往々にして台詞を発語する際、声と身振りが一対となっている。それは、台詞にふさわしい声と身振りを言語解釈の過程で探るからである。それは、上位概念に据えられた台詞に、声と身振りが奉仕しているに過ぎない。だが、日常生活において、我々は言葉と身振りがピタリと合った喋り方を必ずしも行っているわけではない。そこから岡田は、言葉と身振りが発生する源泉を台詞の意味内容ではなく、様々な要素が貯蔵されている〈イメージ〉を措定する。そこから取り出された言語と身振りは対にはなっていないが、イメージを共有しているために同じベクトルである。しかし、両者はピタリと対応していないために距離が生まれる。距離は生まれるがどこかでつながっている声=言語と身振り。そのアンバランスな両者を俳優が体現することで、一つの意味に収斂され得ない、ふり幅のある身体の多様性を表出することができる。岡田が先のエッセイで記していた大筋はこのようなものであった。

それを踏まえると、岡田はダンサーと俳優の融合にまつわる試行を、個々の俳優で既に実験していたのである。今作の終盤、登場する二人の女性は一人の詩人だったことが示される。人と人が分かり合うこと、それを客体化できるのかという問題は、自分は自分を本当に知り尽くしているのか、という自身の問いへと最終的に敷衍する。そしてこのことは、他者を知ること、自分を知ることが不可能だとしても、それでも不断に分かるための努力を行うことが重要という、本作が持つテーマへと接続される。作品内容に関しては、極めて賢く創られている。しかし、岡田利規の演劇実験は、未だ『三月の5日間』で見出した地平の上にあるのではないかと思わされた。

藤原央登(ふじわら・ひさと/劇評ブログ『現在形の批評』主宰・[第三次]『シアターアーツ』編集部)

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Posted on 2014-07-22 | Posted in vol.21 | No Comments »

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