vol.21

空間と何ものかの力|今貂子+倚羅座『而今の花』

今貂子+倚羅座『而今の花』(2011年10月23日13時公演@西陣ファクトリーGarden)

撮影:三村博史

撮影:三村博史

 今貂子+倚羅座は、2000年の結成以来、社寺、美術館、野外等の様々な場所で活動してきた。2007年からは、大正時代に建てられた五條楽園歌舞練場で、鏡板や欄干のある桟敷など独特の舞台機構を生かし、場の雰囲気を個々の身にまとうようにしながら、非常に密度の高い作品を発表し続けている。
 一方、彼女たちが2010年のアルティ・ブヨウ・フェスティバル・セレクションズに出演した時の『遊ぶ女たち』は、率直に言ってそれほどには興奮を誘うものではなかった。ろくろ首にせよ、転生の美女にせよ、登場するのはそれなりに夢幻的な存在なのだが、アルティという現代的な空間には、何だか取って付けたように見えてしまった。それら夢幻が本当の意味で出現するためには、それなりのしつらえが必要なんだろうということと、舞台上の彼女たちの存在は、やはりそこにある身体の存在を超えた、目に見える以外のものであることによって成立しているのだなと、再確認することになった。
 さて、今回は織物工場跡の西陣ファクトリーGardenが会場ということで、観に行く前から腑に落ちてはいたのだが、全く予想外だった趣向が二つある。一つは舞い手が梁に登ったこと、もう一つは囃子方の二人による手踊り。
梁というか、織機の一部でも設置されていたのか、床の張られていない二階とでもいうような造りになっている。一人の舞い手が地面を離れることで、いともたやすく鮮やかに、彼女たちがこの世のものではないことが、改めて明らかになった。しかもそれは必然であるよりは、偶々の悪戯のように露わにされた秘密であった。
 悪戯、戯れ。……三味線を抱えていた二人がすっと現れたかと思うと、左右に分かれて向き合い、手踊りのように戯れ始めた時には、ポンと異空に飛んでしまったような浮遊感に襲われた。それは逸脱でも侵犯でも、ましてや素人芸の微笑ましさというものでもなく、大げさではなく、異次元の立ち現われのようだった。舞踏の身体と空間ばかりを注視していた意識に、するりと間隙を見つけて貫入してきた、音楽を司る者たちの身体の新鮮さ。
 その新鮮さを浴び、受け入れることによって、半裸と着衣の二度にわたる今貂子のソロが、ひときわ濃密で鮮やかな色彩を帯びたのは、舞い手と観客双方の感覚が鋭敏に研ぎ澄まされたからだろう。そのソロがものすさまじいのは、ただ憑依だとかいって外部から訪れるものに身を委ねるのではなく、内部からのほとばしりが何者かを摑まえて体内に引き込んだ果ての現われのようだからだ。
 今のソロのみならず彼女たちの舞踏が、近年急速に充実の度を高めているのは、五條楽園という場との出会いによるに違いなく、西陣ファクトリーGardenとの出会いも、また大いに力となるに違いない。彼女たちの舞踏が、サイトスペシフィックというのとはまた別の方向で特有な空気を持った場を必要とするのは、その場から現われる何ものかとの出会いこそが、それを本当の意味で成立させるからに違いない。

上念省三(じょうねん・しょうぞう/ダンス批評)演劇、宝塚歌劇、ダンス批評。「ダンスの時間プロジェクト」代表。神戸学院大学、近畿大学非常勤講師(芸術文化特別講義、舞台芸術論、等)。http://homepage3.nifty.com/kansai-dnp/

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Posted on 2014-09-29 | Posted in vol.21 | No Comments »

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