vol.21

クロスレビュー|平田オリザ+大阪大学石黒浩研究室・アンドロイド演劇「さようなら」

平田オリザ+大阪大学石黒浩研究室・アンドロイド演劇「さようなら」(10月2日@京都芸術センター)

撮影:阿部綾子

撮影:阿部綾子


日曜日、京都芸術センターのフリースペースは、行儀のいい子供を連れた両親や品のいい高齢者、趣味のいい服を着たカップルなどでにぎわっていた。文化的蓄積を誇る京都の教養階級――常日頃の小演劇ファンと個人としては重ならないこともない、しかしマスとしてみれば明らかに違う空気を漂わせた観衆たち。美術展、コンサート、歌舞伎・能・オペラ。人口規模から考えれば、質・量ともに驚くほど充実した京都の各種文化イベントに熱心に通う人たちである。
彼らの前には暗転した舞台があり、舞台の上には人形のようなものがうっすらと見える。あれが、そうか。やがて照明が明るくなると、それは思った通り、黒い服を着たアンドロイド。お目当ての機械人形である。口が縦にぱくぱくとしか開かず、背中の動きも若干かくかくしているが、表情などは驚くほど自然である。金髪の女性(こちらは人間)と15分間の短い劇を演じる。病気で死にかけた女性を慰め、詩を詠む。死なない自分はどこまで遠くに行けるだろうと、自分の存在への懐疑をもらしてみせる。SFにおけるヒューマノイド型ロボットは自分の存在に悩むものと決まっている。その定石を律儀におさえて、見る人に安心感を与える。
アンドロイドを研究している大阪大学の石黒浩教授との共同作品であり、何はともあれ、アンドロイドに何ができるかを見せることが最大の目的であった。平田オリザはその要請に見事にこたえてみせた。歩くことはおろか立ちあがることもできないアンドロイド。その限られた演技の幅を感じさせない、病気の女性との会話劇。自ら語るように、日本語のたどたどしい、金髪の女性を相手役に起用することで、アンドロイドの「不自然さ」を相対化する。日本人が幼時から蓄積しているヒューマノイド型ロボットSFのステロタイプを利用し、15分の間に心地よい詩情を漂わせてみせる。
平田オリザは当代の才人である。民主党への政権交代直後の鳩山内閣で施政方針演説の原案を書き、演出も手がけたことは有名だ。日本の戦後において、政治学者、民族学者、建築家など、時の政権のご意見番として役割を果たした知識人の系譜があるが、平田オリザにも彼らに似た匂いがある。目に見えて有能で、空想的ではない、現実的な才覚に富んでいる。能弁で、独自の説得力があり、器用で多才である。要するに、現世において成功する要素を兼ね備えており、当然の結果として成功する。平田オリザとはそういう人である。
その一方、平田は「後世に残る戯曲を書く」ことを人生最後の野心としてしばしば口にしている。しかしこればかりは、平田とて実現できるかは分からない。少なくとも言えることは、アンドロイド演劇のような作品はまず後世には残らないということだ。
文学などの歴史を見ると、結果として後世に残っている作品は、必ずしも広く読まれた作品ではない。むしろ少数でも熱心な読者に読まれたものが残る傾向にある。カフカの作品を後世に残したのは、彼から譲り受けたノートをトランクに詰めてアメリカに亡命した友人マックス・ブロートの決断だった。たった一人の人が「自分の命に代えてでも」と思えば、作品は残る。しかし実は、その一人を持つことができない作品・作家が大半なのである。ベストセラーを書いて数十万人、数百万人の読者を得ながら完全に忘れられた作家など数えきれないほどいるのだ。
もし平田が、本当に後世に残る作品を書きたいのなら、アンドロイド演劇のような、演劇的には何の意味もない「遊び」をしている時間はないのではないか。何かを得るためには何かを捨てなければならない。才人・平田もその例外ではないのである。

水牛健太郎(みずうし・けんたろう/wonderland編集長)

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Posted on 2014-09-29 | Posted in vol.21 | No Comments »

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