vol.22

2人は出会ったのかー大小連日の追悼公演|くじら企画『夜が掴む』他

対象:くじら企画『夜が掴む』(7月7日ウィングフィールド)
   こまつ座世田谷パブリックシアター『藪原検校』 (7月8日兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール)

撮影:谷古宇正彦

撮影:谷古宇正彦

井上ひさしは大竹野正典を知っていたのだろうか。
第48回岸田戯曲賞(2004年)の選考で、井上は大竹野の『夜、鳴ク、鳥』を最終候補作品の一つとして読んだ筈である。しかし選評には全く言及がない。そして2009年7月「会社員水死」という大竹野事故死の報道が、9箇月後の病死を前に遺作『組曲虐殺』に取り組んでいた井上の目に止まったのか、そうだとして5年前の選考と結び付けることが出来たのか、今となっては想像する他ない。
ともあれ2人が残した作品は、規模は違っても共に追悼企画としての上演が進行中である。そしてそれぞれの初期代表作と言われる作品を、偶然続けて観ることになった。
『夜が掴む』は大竹野が88年に初演しテアトロ・イン・キャビン賞佳作を受賞した作品の20年ぶりの上演だが、僕は今回が初見。演出はこれまでが作者自身であったのに対し「くじら企画」名義。夫人の後藤小寿枝を中心にしてこれまでのやり方を踏襲したのだろう。74年に独身男がピアノの音に悩まされていたためと称し、同じ団地の階下に住む主婦と幼い娘2人を殺害した事件がヒントになっている。
主人公・コスギ(石川真士)が妻子のある「平凡」な家庭に強く憧れていること、そしてごく普通の人間性を持ちながら「平凡」な人々からの疎外感に苛立っていること。これらの点は04年初演の『密会』で、さらに凝縮された形で描かれた。その一方こちらでは、被害者である階下のヤマモト夫婦(戎屋海老・林加奈子)が、一見悪役風に戯画化されているのだが。
何かにつけて奇矯な形で「仲のよさ」を確認し合う夫婦。しかし夫も実は疎外された子供時代を過ごし、大人の世界がその頃夢見たようなものでないと分かると、家庭だけでも幸せを保ちたいと思っていた。夫婦がコスギが嫌がるのを承知で娘のカオル(森川万里)にピアノを弾かせるのは、孤独な失業者である相手が持ち得ないものを誇示するためだった。だが終始無表情・無言だったカオルは、家に上がり込んで来たコスギに共感し歩み寄る。森川の一言だけの台詞が哀しく胸を打った。
「平凡」で「幸せ」な生活に手が届かない人々。彼らを見下すことで優位を確認しようとする、やはり弱い基盤を抱えた人々。大人の争いの中で最初から疎外された子供。20歳で父親となり演劇活動を支える家族に恵まれていた大竹野は、それ故20代で「家庭」の負の部分を知っていたのだろう。
『藪原検校』は73年に木村光一演出で初演されて以来上演が重ねられた、井上の紛れもない代表作の一つ。「東北の片田舎に生まれた盲の少年」杉の市が殺人を重ね検校に上り詰めた途端、江戸幕府により処刑される物語。僕は88年以来、木村演出による地人会の公演を3回観ている。今回は木村の弟子でもある栗山民也が初めて演出し、主演は野村萬斎。客席はくじら企画と同様超満員、但しこちらは八倍の観客数である。
初期の井上作品には日本語の祭と言うべき、言葉遊びや下ネタに彩られた膨大な台詞がある。この作品にはある意味でその極みと言うべき一人語り「早物語」がある(「井上ひさし全芝居」では二段組正味4ページ)があるのだが、萬斎は十分聴かせたとは言えなかった(伝統芸能の演者としては、彼の声はやや弱い)。しかし本編では凄味を効かせたささやきから苦悩を表す絶叫まで声を変化させ、かなり効果を上げていた。印象的なのは前半、母お志保(熊谷真実)を誤って殺す場面。熊谷も好演で、芝居の世界にしかいないような悪人の根底に、母親への純粋な思いという豊かな人間性があると思わせた。
そして収穫は、松平定信(大鷹明良)に杉の市の処刑を進言するという設定の塙保己市を演じた小日向文世。盲人が生きていくためには「品性」を磨き、記憶力を生かし学問で業績を上げるべきだと主張していた紳士が、民衆支配の手段として公開処刑を提案する。「片輪者」は「正常人の敵」であり、その敵を屠る「祭」こそ民衆の格好のはけ口になると。高めの声で淡々と明晰にそういった言葉を語る小日向は(最近の映像でのイメージに沿っているとも言えるが)、同じ盲人ながら杉の市とは対極の「善人」の抱えている深い怨念を確かに届けて来た。
演劇界での井上ひさしの評価は揺らぐことはないだろう。ただ前夫人とのトラブルを巡る人格攻撃も続いているようだ。「ネット右翼」によるものはともかく、女性問題に関わる人々に対しては、無視せずに答えていくことも必要だろう。だが自ら矛盾を抱え、しかもそれを作品に生かせる作者だからこそ、『藪原検校』が書けたのではないだろうか。そして生活に苦しむ東北の村人が「働くことの出来ない盲」を敵視する挿話で始まるこの作品は、今また力を持って来た筈である。
一人の人間には幾つかの顔があり、誰もが被害者にも加害者にもなり得る。弱い存在はより弱い相手を探し傷付ける。2人の劇作家は若い頃からそういった状況に向かい合っていた。過去の作品として片付けてしまえば、受け手も現実で加害者か被害者になりかねない。

星野明彦(ほしの・あきひこ/演劇評論家)

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Posted on 2014-09-29 | Posted in vol.22 | No Comments »

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